1 00:00:01,306 --> 00:00:03,908 (私の声) 私は押しも押されもせぬ 四畳半主義者である 2 00:00:04,009 --> 00:00:06,311 その空間的意義について 説明しようと思う 3 00:00:06,411 --> 00:00:09,648 私は三畳の部屋に住んでいる人間を 1人だけ知っていたが— 4 00:00:09,748 --> 00:00:11,783 断固として 世に迎合しない性質が高じて— 5 00:00:11,883 --> 00:00:14,119 昨年 郷里から 親が迎えにきた 6 00:00:14,219 --> 00:00:16,388 いささか信じがたいことだが 浄土寺(じょうどじ)の近くには— 7 00:00:16,688 --> 00:00:19,691 畳を2枚 縦に並べた 部屋というものが実在するらしい 8 00:00:19,791 --> 00:00:22,327 毎晩 寝ていたら 身長が伸びてしまうに違いない 9 00:00:22,927 --> 00:00:25,397 北白川(きたしらかわ)バプテスト病院界隈(かいわい)の (自主規制音)荘には— 10 00:00:25,697 --> 00:00:26,931 一畳の部屋があったというが— 11 00:00:27,032 --> 00:00:28,867 それを知った学生は 謎めいた失踪を遂げ— 12 00:00:28,967 --> 00:00:31,870 その知人たちも 数々の悲運に見舞われたという 13 00:00:34,806 --> 00:00:36,341 そこで四畳半である 14 00:00:38,309 --> 00:00:40,812 一畳や二畳や三畳に比べて 四畳半というものは— 15 00:00:40,912 --> 00:00:43,214 実にキレイな正方形になっている 16 00:00:46,317 --> 00:00:48,219 美しいではないか… 17 00:00:48,753 --> 00:00:51,222 二畳でも正方形になるけれども それでは手狭である 18 00:00:51,322 --> 00:00:54,025 かといって 四畳半より 広い面積で正方形を作ると— 19 00:00:54,125 --> 00:00:56,027 今度は 武田信玄(たけだしんげん)の便所のように広くて— 20 00:00:56,127 --> 00:00:57,295 ヘタをすれば遭難する 21 00:00:57,395 --> 00:01:01,199 大学入学以来 私は この四畳半を 断固として支持してきた 22 00:01:01,900 --> 00:01:04,335 七畳やら八畳やら 十畳やらの部屋に住む人間は— 23 00:01:04,436 --> 00:01:07,238 本当に それだけの空間を 我が物として支配するに至る— 24 00:01:07,338 --> 00:01:09,307 人間としての器が あるのであろうか? 25 00:01:10,141 --> 00:01:13,044 我々 人類に支配可能なのは 四畳半以下の空間であり— 26 00:01:13,144 --> 00:01:15,180 それ以上の広さを 貪欲に求める不届き者は— 27 00:01:15,280 --> 00:01:17,916 いずれ 部屋の隅から 恐るべき反逆に遭うことであろう 28 00:01:18,016 --> 00:01:19,751 そう私は主張してきた 29 00:01:20,251 --> 00:01:22,153 四畳半こそ 私の世界の全てである 30 00:01:22,253 --> 00:01:26,991 それは私の信念でもあり そして 今は客観的事実でもあった 31 00:01:27,459 --> 00:01:29,427 責任者はどこか? 32 00:03:00,840 --> 00:03:02,876 (私の声) 当時 大学1回生だった 私の目の前には 33 00:03:02,976 --> 00:03:05,345 さまざまなキャンパスライフへの 扉が無数に開かれていた 34 00:03:05,445 --> 00:03:07,480 しかし 私は どのサークルも選ばなかった 35 00:03:07,780 --> 00:03:10,116 薔薇色(ばらいろ)のキャンパスライフなど 所詮 夢 幻である 36 00:03:10,216 --> 00:03:13,353 私は四畳半という静謐(せいひつ)な空間で 自らを鍛えることにした 37 00:03:16,823 --> 00:03:19,859 かつて 寺山修司(てらやましゅうじ)は言った “書を捨てて 町へ出ろ”と 38 00:03:19,959 --> 00:03:21,895 しかし 町に出て 何をしろというのだ? 39 00:03:22,262 --> 00:03:25,365 以降2年間 私は ほとんどの 時間を四畳半において過ごし— 40 00:03:25,465 --> 00:03:28,134 一部で“四畳半主義者”と 呼ばれるまでになっていた 41 00:03:34,240 --> 00:03:36,209 (伸びをする声) 42 00:03:41,981 --> 00:03:44,050 (私の声) ここが私の牙城(がじょう)である 43 00:03:44,150 --> 00:03:47,220 裏を叡山(えいざん)電車が走る 1周わずか数秒の空間ではあるが 44 00:03:47,320 --> 00:03:49,088 ここには私の全てが詰まっている 45 00:03:49,989 --> 00:03:51,324 北側には薄っぺらなドアがあり— 46 00:03:51,424 --> 00:03:54,327 先代から由緒正しい注意書きが 健在である 47 00:03:54,961 --> 00:03:57,063 ドアの脇には 汚れ放題の流し台があり— 48 00:03:57,163 --> 00:03:59,399 料理人の やる気を損なうこと 請け合いである 49 00:03:59,499 --> 00:04:01,968 私は料理の腕を振るうことを 断固 拒否し— 50 00:04:02,068 --> 00:04:04,504 男子厨房(ちゅうぼう)に入らずを実践してきた 51 00:04:05,104 --> 00:04:07,040 北側の壁の大半は 押し入れとなっており— 52 00:04:07,140 --> 00:04:08,508 華やかさの かけらもない衣類— 53 00:04:08,608 --> 00:04:11,244 読まなかった本などが 無造作に詰め込まれている 54 00:04:11,344 --> 00:04:13,346 猥褻(わいせつ)図書館も その中だ 55 00:04:16,249 --> 00:04:18,885 東の壁の隅には 強いて使う必要性を感じない— 56 00:04:18,985 --> 00:04:20,453 掃除機と炊飯器が置いてあり— 57 00:04:20,553 --> 00:04:22,589 壁の大半には 膨大な蔵書を取りそろえた— 58 00:04:22,889 --> 00:04:24,858 広大な活字スペースが広がる 59 00:04:26,492 --> 00:04:28,294 南東の本棚と机の はざまには— 60 00:04:28,394 --> 00:04:31,164 あらゆるガラクタが投げ込まれる 空間が広がっており— 61 00:04:31,264 --> 00:04:32,932 そこへ ひとたび 迷い込んだが最後 62 00:04:33,032 --> 00:04:35,568 生きて帰れる可能性は 極めて低いと思われた 63 00:04:37,537 --> 00:04:40,139 そして 南から南西へかけて 叡山電車が通ると— 64 00:04:40,240 --> 00:04:41,875 ガタガタと震える窓があり— 65 00:04:41,975 --> 00:04:45,411 その手前に高校時代から 苦楽を共にしてきた机が置いてある 66 00:04:46,112 --> 00:04:48,381 西側には やもめの靴下が 相手を捜しており— 67 00:04:48,481 --> 00:04:51,918 日々の生活を彩る衣装 古風な世界地図がある 68 00:04:58,958 --> 00:04:59,993 ううん… 69 00:05:04,330 --> 00:05:05,198 ハア 70 00:05:07,300 --> 00:05:08,401 あっ! 71 00:05:09,002 --> 00:05:10,670 あ… ううう 72 00:05:13,039 --> 00:05:13,973 うっ 73 00:05:14,307 --> 00:05:15,208 ううっ 74 00:05:20,413 --> 00:05:21,281 ん… 75 00:05:21,681 --> 00:05:23,449 ううう~! 76 00:05:28,288 --> 00:05:29,422 (ため息) 77 00:05:31,057 --> 00:05:35,962 (足音) 78 00:05:36,062 --> 00:05:37,463 (深呼吸) 79 00:05:38,564 --> 00:05:39,932 ふん! 80 00:05:44,270 --> 00:05:45,305 ハア… 81 00:05:47,006 --> 00:05:48,441 あっ ああ… 82 00:05:49,309 --> 00:05:51,711 (私の声)平凡な男が ある朝 毒虫になっていた というのは 83 00:05:52,011 --> 00:05:53,946 有名な小説の冒頭である 84 00:05:54,047 --> 00:05:56,182 私の場合 そこまで劇的では なかったが— 85 00:05:56,282 --> 00:05:58,318 これは困ったことになった 86 00:06:04,624 --> 00:06:07,226 しかし これまで熱心に 外へ出ようとしなかったものを— 87 00:06:07,327 --> 00:06:10,730 今更 慌てて出ようとするのは いかにも人間の底が浅いではないか 88 00:06:11,030 --> 00:06:13,132 腰を据えて どっしり構えているうちに— 89 00:06:13,232 --> 00:06:14,701 事態は おのずから好転するであろう 90 00:06:45,131 --> 00:06:46,599 (私の声) 私は1つの仮説を立てた 91 00:06:46,699 --> 00:06:48,634 占い婆(ばば)の呪い仮説である 92 00:06:48,735 --> 00:06:50,236 先日 木屋町(きやまち)を通りかかると— 93 00:06:50,336 --> 00:06:52,605 怪しい妖気を 無料で垂れ流している老婆がいた 94 00:06:52,705 --> 00:06:54,774 老婆は “学生さん そろそろ お困りであろう” 95 00:06:55,074 --> 00:06:57,777 “人生を踏み誤ってしまった”と 問うてくる 96 00:06:58,077 --> 00:06:59,612 私は“断じて そのようなことは ありません” 97 00:06:59,712 --> 00:07:02,682 “今の暮らしで充足している”と 答えるが 老婆は続けて— 98 00:07:02,782 --> 00:07:04,684 “意地を張らなくても いいのですよ”と言う 99 00:07:04,784 --> 00:07:06,452 “あなたは才能が おありでしょうから” 100 00:07:06,552 --> 00:07:09,022 “好機は目の前に ぶら下がっております”と 101 00:07:11,491 --> 00:07:13,593 “こんなもの 好機でも何でもない!” 102 00:07:13,693 --> 00:07:15,595 最後に老婆は “ヘッヘッヘッヘ” 103 00:07:16,262 --> 00:07:19,332 …とは言わなかったかもしれないが 気色悪く笑っていた 104 00:07:54,167 --> 00:07:56,702 おーい 誰か聞こえるか? 105 00:07:57,570 --> 00:08:00,373 (私の声)三文ドラマのような セリフを吐いたものの 返事はなく 106 00:08:00,473 --> 00:08:02,842 その恥ずかしさを 1人で受け止めねばならなかった 107 00:08:03,142 --> 00:08:04,510 (力む声) 108 00:08:05,411 --> 00:08:07,280 (力む声) 109 00:08:07,380 --> 00:08:08,448 うんっ! 110 00:08:13,252 --> 00:08:14,787 (私の声) こうなると いよいよSFである 111 00:08:15,088 --> 00:08:16,556 こんなふうに 部屋が つながった世界に— 112 00:08:16,656 --> 00:08:19,192 閉じ込められる映画も かつて あった気がする 113 00:08:21,494 --> 00:08:22,662 水が出てくるということは— 114 00:08:22,762 --> 00:08:24,597 外界へと つながっているはずである 115 00:08:24,697 --> 00:08:27,300 私が蛇口を通り抜けられる 軟体人間であれば— 116 00:08:27,400 --> 00:08:30,103 ここから難なく京都の水道局へ 出られるのだが… 117 00:08:31,871 --> 00:08:34,440 約2日目にして食料が なくなった 118 00:08:42,715 --> 00:08:44,484 まるで 無人の四畳半に 流れ着いた— 119 00:08:44,584 --> 00:08:45,785 ロビンソン・ クルーソーだが— 120 00:08:45,885 --> 00:08:49,122 私の場合 蛇口から水は出るし 家具一式も揃(そろ)っており— 121 00:08:49,222 --> 00:08:51,891 サバイバルと呼ぶにも どうも煮え切らなかった 122 00:08:53,159 --> 00:08:54,160 僥倖(ぎょうこう)であった 123 00:08:54,260 --> 00:08:57,130 隣の四畳半にも魚肉ハンバーグと カステラがあった 124 00:08:57,230 --> 00:08:58,865 …とはいえ これは食べても いいものだろうか? 125 00:08:59,165 --> 00:09:00,533 私はSFは あまり読まないが— 126 00:09:00,633 --> 00:09:01,868 これが もし そういった現象だとしたら— 127 00:09:02,168 --> 00:09:04,770 このカステラを食べることで 何か不都合は起きないのだろうか? 128 00:09:04,871 --> 00:09:06,439 あるいは この全てが幻覚だとしたら— 129 00:09:06,539 --> 00:09:09,308 このカステラは 本当に実在する物だろうか? 130 00:09:13,813 --> 00:09:14,680 フフン 131 00:09:14,780 --> 00:09:15,748 (私の声)カステラだ 132 00:09:15,848 --> 00:09:18,751 合理的な説明は ともかく まさしく それはカステラであった 133 00:09:18,851 --> 00:09:21,587 こうして 食料問題は根本的に解決した 134 00:09:21,687 --> 00:09:25,158 太陽の光が見られぬから 昼なのか夜なのかも判然としない 135 00:09:25,258 --> 00:09:26,425 1日 1日と 区切っていても— 136 00:09:26,526 --> 00:09:27,827 それが正確な区切り なのかどうか— 137 00:09:27,927 --> 00:09:29,162 定かではなかった 138 00:09:37,737 --> 00:09:40,373 カステラによって 得られる栄養分は無視できない 139 00:09:40,473 --> 00:09:42,642 これは 先日 2階の住人の部屋に出入りする— 140 00:09:42,742 --> 00:09:44,944 小津(おづ)という人間から もらったものである 141 00:09:45,678 --> 00:09:46,879 閉じ込められる数日前— 142 00:09:47,180 --> 00:09:50,383 我が下鴨幽水荘(しもがもゆうすいそう)に ゴキブリが大量発生した 143 00:09:50,483 --> 00:09:52,785 うわわ! あっ あっ… 144 00:09:56,923 --> 00:09:59,358 うう… うんっ 145 00:10:00,493 --> 00:10:05,264 (足音) 146 00:10:07,800 --> 00:10:08,901 うん? 147 00:10:15,908 --> 00:10:16,809 あああ! 148 00:10:16,909 --> 00:10:18,444 うわああ! 149 00:10:22,381 --> 00:10:23,449 フウ 150 00:10:23,883 --> 00:10:24,917 うわわっ 151 00:10:25,451 --> 00:10:27,320 (ノックの音) (私)あっ? 152 00:10:31,224 --> 00:10:35,661 (遠ざかる足音) 153 00:10:48,474 --> 00:10:49,342 んん! 154 00:10:49,442 --> 00:10:52,445 (私の声) その時は理不尽な怒りに駆られたが 今となっては 会ったことのない 155 00:10:52,545 --> 00:10:54,380 小津という人間に 感謝すべきであろう 156 00:10:54,480 --> 00:10:56,582 絶望的ではあったが 考えようによっては— 157 00:10:56,682 --> 00:10:58,384 この状況は幸運といえた 158 00:10:58,484 --> 00:11:01,387 隣の部屋に移れば またカステラと 魚肉ハンバーグが手に入る 159 00:11:01,487 --> 00:11:02,788 栄養に偏りはあるが— 160 00:11:02,888 --> 00:11:05,391 これで この先 ずっと 食うには困らないというわけだ 161 00:11:05,491 --> 00:11:06,993 こうなってくると この四畳半世界が— 162 00:11:07,293 --> 00:11:09,395 むしろ 住みよい世界に思えてくる 163 00:11:10,429 --> 00:11:12,531 四畳半は一見 物理的に狭いようであるが— 164 00:11:12,632 --> 00:11:14,600 その拡張をインナーワールドに 求めることが できる 165 00:11:14,934 --> 00:11:17,303 妄想世界を広げるのに制限はない 166 00:11:17,403 --> 00:11:21,507 言うなれば ここ四畳半において 私は万物の創造主たり得るのだ 167 00:11:22,708 --> 00:11:23,743 生き抜いてやろう 168 00:11:23,843 --> 00:11:25,578 この四畳半という パーフェクトワールドを— 169 00:11:25,678 --> 00:11:26,712 楽しみ抜いてみせよう 170 00:11:26,812 --> 00:11:28,848 それが 運命の神への 仕返しであるように思え— 171 00:11:28,948 --> 00:11:30,616 私は武者震いをした 172 00:11:30,716 --> 00:11:32,918 (力む声) 173 00:11:42,061 --> 00:11:45,364 (私の声) これを機に 読めていなかった本を 読んでしまおうと思う 174 00:11:45,464 --> 00:11:46,565 時間は いくらでもある 175 00:11:46,666 --> 00:11:50,503 楽しい 楽しい 楽しい… 176 00:11:56,008 --> 00:11:58,911 (ふんばる声) 177 00:12:04,684 --> 00:12:05,818 (私の声) たまに 暇に任せて 178 00:12:05,918 --> 00:12:07,720 勉強でもしようと 殊勝な考えを起こし— 179 00:12:07,820 --> 00:12:08,888 シュレディンガー 方程式に— 180 00:12:08,988 --> 00:12:10,790 返り討ちに されたりした 181 00:12:12,358 --> 00:12:13,926 この四畳半世界の開拓者として— 182 00:12:14,026 --> 00:12:15,995 1人 雄々しく 生き延びていく計画を練った 183 00:12:16,095 --> 00:12:18,964 カステラと魚肉ハンバーグを使って もっと多様な料理を工夫し— 184 00:12:19,065 --> 00:12:20,900 キノコの計画的 栽培事業にも着手 185 00:12:21,000 --> 00:12:23,469 いずれは 各部屋を改装して ボーリング場や映画館— 186 00:12:23,569 --> 00:12:25,805 ゲームセンターなどの 各種 アミューズメント施設を作り— 187 00:12:25,905 --> 00:12:27,106 理想郷を実現しよう 188 00:12:27,406 --> 00:12:29,341 考えるだけで ワクワクする! 189 00:12:39,752 --> 00:12:41,454 こんなマヌケなことを していても— 190 00:12:41,554 --> 00:12:43,823 世界中の誰も 私のことを気にかけない 191 00:12:43,923 --> 00:12:47,493 他人に煩わされることのない まさに私だけの世界 192 00:12:50,663 --> 00:12:52,465 “海底二万海里”を読みふけり— 193 00:12:52,565 --> 00:12:55,067 安いウイスキーで酔っ払い 天井に向かって わめき続ける 194 00:12:56,135 --> 00:12:58,137 己を押し包む 無音の世界が怖くなり— 195 00:12:58,437 --> 00:13:00,639 知っている限りの歌を 大声で歌うに至り— 196 00:13:00,740 --> 00:13:02,007 私は この四畳半世界から— 197 00:13:02,108 --> 00:13:04,643 脱出したくなっている自分を 発見した 198 00:13:04,877 --> 00:13:06,112 認めたくないことでは あったが— 199 00:13:06,412 --> 00:13:08,614 私は四畳半に 心底 うんざりしていた 200 00:13:08,714 --> 00:13:10,049 ドアを開ければ 汚い廊下があり— 201 00:13:10,149 --> 00:13:12,384 汚い廊下を抜けて行けば 汚い便所があって— 202 00:13:12,485 --> 00:13:15,521 汚い靴箱があり この下宿から 外へ出ることが できる 203 00:13:15,621 --> 00:13:17,790 いつでも その気になれば 外へ出ることが できるからそこ— 204 00:13:17,890 --> 00:13:19,692 四畳半に籠城(ろうじょう)できたのである 205 00:13:20,793 --> 00:13:23,062 何より 現実的には もう1つの生理的欲求が— 206 00:13:23,162 --> 00:13:24,930 私をジワジワと苦しめた 207 00:13:25,397 --> 00:13:27,600 平たく言えば くさくて たまらなくなった 208 00:13:27,900 --> 00:13:30,736 ある日 とうとう耐えられなくなり 私は その部屋から遠ざかり— 209 00:13:30,836 --> 00:13:32,872 勢い そのまま 旅に出ることにした 210 00:13:33,806 --> 00:13:37,109 この謎めいた世界に閉じ込められて およそ 1週間目のことである 211 00:13:37,409 --> 00:13:40,179 とにかく この四畳半の道を 行ける所まで行ってみよう 212 00:13:41,814 --> 00:13:48,087 (荒い息遣い) 213 00:13:48,187 --> 00:13:50,456 (私の声)その日は 100余りの四畳半を横切ったが 214 00:13:50,556 --> 00:13:53,192 それでも四畳半は続き さすがに アホらしくなってきた 215 00:13:53,492 --> 00:13:54,426 (私)うっ… 216 00:13:59,732 --> 00:14:03,068 (私の声) “シベリア流刑地”といわれる 机と本棚の隙間を調査していた際 217 00:14:03,169 --> 00:14:05,437 貧相な財布を発見した 218 00:14:07,907 --> 00:14:10,009 それぞれの四畳半に 千円 あるとすると— 219 00:14:10,109 --> 00:14:12,077 1部屋 動くことに 千円 もうかることになる 220 00:14:12,178 --> 00:14:14,814 10部屋 動けば 100部屋 動けば 千部屋 動けば… 221 00:14:17,716 --> 00:14:20,019 (鼻歌) 222 00:14:24,123 --> 00:14:25,024 フフン 223 00:14:25,124 --> 00:14:27,026 おおっ ヘヘヘッ 224 00:14:27,626 --> 00:14:29,528 アハハー! よいしょ 225 00:14:29,628 --> 00:14:31,063 ふん! よいしょ 226 00:14:31,163 --> 00:14:32,665 ヘイ 開いた! 227 00:14:32,765 --> 00:14:34,066 エヘヘ もう1丁 228 00:14:34,166 --> 00:14:35,668 ああ! あ~ 229 00:14:37,570 --> 00:14:38,904 (私の声) 奇妙なことを発見した 230 00:14:39,004 --> 00:14:42,208 休憩がてら 以前 古本市で買った “半七捕物帳(はんしちとりものちょう)”を読もうと思ったら 231 00:14:42,508 --> 00:14:45,644 その四畳半には“半七捕物帳”が 存在しなかった 232 00:14:45,744 --> 00:14:48,481 かすかな変化だが 本棚の品揃えが変わっていたのだ 233 00:14:48,848 --> 00:14:51,884 どうやら 詳細に見ていくと 全く同じに見える四畳半にも— 234 00:14:51,984 --> 00:14:54,620 少しずつ 違いがあるらしいと 気付いた 235 00:14:59,992 --> 00:15:00,893 うん… あっ 236 00:15:04,563 --> 00:15:06,765 (私) なーんだ 夢だったのかあ! 237 00:15:06,866 --> 00:15:08,901 あああ… 238 00:15:10,002 --> 00:15:12,671 (私の声)なぜ 壁を破ろうと しなかったのだろう? 239 00:15:12,771 --> 00:15:14,573 何しろ この壁は 隣の部屋の会話に— 240 00:15:14,673 --> 00:15:16,775 相づちを打ちたくなるほど 薄いのである 241 00:15:17,810 --> 00:15:19,612 隣人の中国から来た留学生は— 242 00:15:19,712 --> 00:15:22,214 よくガールフレンドを 引っ張り込んで睦言(むつごと)を交わしていた 243 00:15:22,515 --> 00:15:25,117 私は第2外国語として 中国語を学ばなかったことを— 244 00:15:25,217 --> 00:15:26,819 腹の底から後悔したものだ 245 00:15:26,919 --> 00:15:29,154 彼なら 私が壁を打ち破り 乱入してきたとしても— 246 00:15:29,255 --> 00:15:32,291 大陸出身の懐の深さで 笑って済ませてくれることであろう 247 00:15:32,591 --> 00:15:33,726 (私)よっしゃー! 248 00:15:40,733 --> 00:15:41,600 (衝撃音) 249 00:15:41,700 --> 00:15:42,902 (咳(せき)) 250 00:15:45,738 --> 00:15:46,672 ああ? 251 00:16:01,120 --> 00:16:02,955 (奇声) 252 00:16:13,632 --> 00:16:15,968 (私の声)ひょっとすると 私は死んだのではないか? 253 00:16:16,068 --> 00:16:17,937 四畳半地獄というようなものに 落ちて— 254 00:16:18,037 --> 00:16:21,574 永遠に続く苦行を それと知らず 強いられているのでは ないか? 255 00:16:22,074 --> 00:16:22,975 (私の荒い息遣い) 256 00:16:23,075 --> 00:16:24,076 (私の声)信じがたい… 257 00:16:24,176 --> 00:16:26,312 外は もう 紅葉が始まっているかもしれぬ 258 00:16:26,612 --> 00:16:28,881 千二百時間もの間 私は外食をしていない 259 00:16:28,981 --> 00:16:31,050 日光を浴びていない 新鮮な空気を吸っていない 260 00:16:31,150 --> 00:16:32,351 人間と言葉を交わしていない 261 00:16:32,651 --> 00:16:33,986 (私)うう~! 262 00:16:34,253 --> 00:16:35,120 あっ? 263 00:16:35,220 --> 00:16:37,222 (私の声)その部屋には 見覚えのない物があった 264 00:16:37,323 --> 00:16:39,758 どうやら どこかの団体の看板のようである 265 00:16:39,858 --> 00:16:42,061 このように四畳半ごとに 違いがあるのは なぜか? 266 00:16:42,161 --> 00:16:44,096 全て同じ 私の四畳半の はずなのに— 267 00:16:44,196 --> 00:16:46,332 なぜ 細々とした違いが 生じるのか? 268 00:16:47,299 --> 00:16:50,803 その瞬間 私は この四畳半世界の仕組みを把握した 269 00:16:50,903 --> 00:16:52,838 かつて 買いそびれた本が並ぶ本棚 270 00:16:52,938 --> 00:16:54,607 私が入っていないはずのサークル 271 00:16:54,707 --> 00:16:57,276 そうなのだ ここは私のパラレルワールドなのだ 272 00:16:58,043 --> 00:16:59,878 この何十日もの間 私は— 273 00:16:59,979 --> 00:17:01,981 これまでの さまざまな選択の中であり得た— 274 00:17:02,081 --> 00:17:05,250 別の並行宇宙の四畳半を 横切ってきたのだ 275 00:17:07,920 --> 00:17:09,221 (衝撃音) 276 00:17:11,957 --> 00:17:13,125 はっ… 277 00:17:17,796 --> 00:17:19,098 (つばを飲む音) 278 00:17:19,999 --> 00:17:21,066 あっ 279 00:17:23,936 --> 00:17:25,904 (私の声)これは 歯科衛生士の羽貫(はぬき)さんである 280 00:17:26,005 --> 00:17:27,906 昨年の秋に美人歯科衛生士が— 281 00:17:28,007 --> 00:17:30,776 ねっとりと歯茎マッサージを してくれるとの噂(うわさ)を聞きつけ— 282 00:17:30,876 --> 00:17:33,145 私は近所の歯科医を訪れた 283 00:17:34,246 --> 00:17:36,682 最近 御蔭橋(みかげばし)で酔っ払って 欄干から叫ぶ— 284 00:17:36,782 --> 00:17:39,418 全く違う姿の羽貫さんを見かけたが あの りんとして— 285 00:17:39,718 --> 00:17:41,120 プロフェッショナルな 態度であった彼女に— 286 00:17:41,220 --> 00:17:42,087 何があったのか? 287 00:17:42,187 --> 00:17:43,889 私のような精神的 無頼漢には— 288 00:17:43,989 --> 00:17:46,191 そうした機微を のみ込みようもなかった 289 00:17:47,226 --> 00:17:48,327 どういった選択をしたのか? 290 00:17:48,427 --> 00:17:50,329 この世界で 私は羽貫さんと親しくなり— 291 00:17:50,429 --> 00:17:51,964 美しいラブドールと同棲(どうせい)し— 292 00:17:52,064 --> 00:17:54,667 清楚(せいそ)な乙女との文通まで 果たしているらしい 293 00:17:54,767 --> 00:17:56,735 実に あやかりたい所業である 294 00:17:56,835 --> 00:17:59,905 どうやら ことさら自堕落な生活に 陥ってしまったパターンである 295 00:18:00,005 --> 00:18:02,274 まるで 我が下鴨幽水荘の2階の住人に— 296 00:18:02,374 --> 00:18:04,209 弟子入りでもしたかのようだ 297 00:18:04,309 --> 00:18:06,045 私は千円の詰まった リュックサックを— 298 00:18:06,145 --> 00:18:07,713 打ち捨てていくことにした 299 00:18:07,813 --> 00:18:10,282 どうせ もう 私に使い道はないのだ 300 00:18:13,819 --> 00:18:14,687 あっ? 301 00:18:18,023 --> 00:18:21,827 あっ これは代理戦争の軍資金か!? 302 00:18:24,697 --> 00:18:27,232 (私の声)この部屋の住人は やけに上昇志向があるようだ 303 00:18:28,233 --> 00:18:30,002 私は やや怒りを覚えた 304 00:18:30,102 --> 00:18:32,204 これ以上の幸せを望むというのか? 305 00:18:32,304 --> 00:18:35,708 それでは まるで 太陽を目指したイカロスではないか 306 00:18:37,242 --> 00:18:38,377 そういえば そんなチラシも— 307 00:18:38,477 --> 00:18:40,279 かつて 見たような気がする 308 00:18:43,449 --> 00:18:46,852 これは いつか“猫ラーメン”で 見かけた人物ではないか? 309 00:18:47,252 --> 00:18:49,955 猫ラーメンは 猫からダシを 取っているという噂であるが— 310 00:18:50,055 --> 00:18:51,824 その味は無類である 311 00:18:52,825 --> 00:18:54,927 それは ある青春の終わりを 思わせるような— 312 00:18:55,027 --> 00:18:56,862 和やかな会談であった 313 00:18:57,196 --> 00:18:59,098 2人は何か争いを 続けていたらしく— 314 00:18:59,198 --> 00:19:01,767 跡目を誰にするかなど 不穏な話も聞こえたが— 315 00:19:01,867 --> 00:19:03,469 見ると 1人は 水もしたたる いい男で— 316 00:19:03,769 --> 00:19:07,272 もう1人は ナスのような顔をした 下鴨幽水荘の住人である 317 00:19:07,372 --> 00:19:10,943 そっちの男は ふだんから 関わりたくないと思っていた 318 00:19:12,377 --> 00:19:15,948 しかし あの色男に こんな趣味があったとは… 319 00:19:19,017 --> 00:19:20,819 なんだか よくも知らない人たちのことが— 320 00:19:20,919 --> 00:19:22,321 妙に愛(いと)おしくなった 321 00:19:22,421 --> 00:19:25,991 昔から知っていたような気がして なぜか懐かしささえ覚えた 322 00:19:27,025 --> 00:19:29,328 (力む声) 323 00:19:29,995 --> 00:19:31,230 (私) “ギャラは ちゃんともらえた?” 324 00:19:31,330 --> 00:19:33,198 “カメラマンから 口説かれてなーい?” 325 00:19:35,100 --> 00:19:36,068 (私の声) こんなことをしていても 326 00:19:36,168 --> 00:19:38,504 誰1人 バカにしてさえ くれないことが つらかった 327 00:19:38,804 --> 00:19:41,240 もし ここに ぬらりひょんのような 悪友の1人でも いれば… 328 00:19:41,340 --> 00:19:42,908 “何をやってるんですか?” 329 00:19:43,008 --> 00:19:45,878 “大脳新皮質に ウジ虫でも湧きましたか?” 330 00:19:45,978 --> 00:19:48,847 そう私を完膚なきまでに バカにしてくれたことであろう 331 00:19:49,314 --> 00:19:50,382 フッ… 332 00:19:50,482 --> 00:19:52,251 うう… うっ 333 00:19:59,158 --> 00:20:02,027 (私の声) それにしても どの部屋の住人も いかにも楽しげに見える 334 00:20:02,127 --> 00:20:03,562 決して 薔薇色とまでは いかないまでも— 335 00:20:03,862 --> 00:20:06,965 それぞれの四畳半が それぞれに 彩りに あふれているように見える 336 00:20:07,366 --> 00:20:10,068 私にも こんな選択が 可能であったのだろうか? 337 00:20:13,172 --> 00:20:14,039 ああっ 338 00:20:18,343 --> 00:20:19,278 うん? 339 00:20:20,012 --> 00:20:21,013 ああ! 340 00:20:21,380 --> 00:20:23,081 ああっ 俺(おえ)だ! 341 00:20:23,182 --> 00:20:24,483 (別の私)うわああ! 342 00:20:24,583 --> 00:20:27,286 (別の私)えい やあ! (私)あっ うう… 343 00:20:27,386 --> 00:20:28,554 (別の私)えい! 344 00:20:35,160 --> 00:20:36,128 (私)ええ? 345 00:20:36,595 --> 00:20:37,896 ああ! 346 00:20:37,996 --> 00:20:41,200 (舌のもつれた声で) お… おい お前 助けてくれ! 347 00:20:41,300 --> 00:20:43,268 ううっ う~ 348 00:20:45,170 --> 00:20:47,139 (私の声) しかし 私は既に気付いていた 349 00:20:47,239 --> 00:20:49,842 ほんの些細(ささい)な決断の違いで 私の運命は変わる 350 00:20:49,942 --> 00:20:52,878 無数の私が生まれる 無数の四畳半が生まれる 351 00:20:52,978 --> 00:20:56,315 したがって この四畳半世界は 原理的に果ては ないのだ 352 00:21:04,156 --> 00:21:05,958 どうやら 彼らは 並行世界を越えて— 353 00:21:06,058 --> 00:21:07,893 次々と集まって こられるらしい 354 00:21:07,993 --> 00:21:09,394 恋にうつつを 抜かすことも できるし— 355 00:21:09,494 --> 00:21:11,096 猥談で盛り上がることも できる 356 00:21:11,196 --> 00:21:12,397 それに引き換え 私は— 357 00:21:12,497 --> 00:21:15,300 1人で猥談し 1人で妄想を膨らますばかりだ 358 00:21:15,400 --> 00:21:17,002 しかし それも 今や続かない