1 00:00:02,135 --> 00:00:09,643 ♬~ 2 00:00:17,417 --> 00:00:21,288 1月 アメリカの科学雑誌は➡ 3 00:00:21,288 --> 00:00:27,995 毎年恒例の人類滅亡までの残り時間を示す 終末時計を発表した。 4 00:00:27,995 --> 00:00:30,430 89秒。 5 00:00:30,430 --> 00:00:36,670 残り時間は 過去最短となった。 6 00:00:36,670 --> 00:00:40,641 気候変動の進行 AIのリスク➡ 7 00:00:40,641 --> 00:00:46,847 そして 核の脅威が 時計の針を進めた。 8 00:01:06,533 --> 00:01:12,339 人類史上初めて原爆が落とされた街 広島。 9 00:01:12,339 --> 00:01:20,847 ここに 終末時計の針を押しとどめようと する力となった 2人の少女がいた。 10 00:01:22,983 --> 00:01:26,553 2歳で被爆した 佐々木禎子と➡ 11 00:01:26,553 --> 00:01:31,758 13歳で被爆した 中村節子である。 12 00:01:33,327 --> 00:01:39,066 佐々木禎子は 原爆の放射線障害による 白血病で➡ 13 00:01:39,066 --> 00:01:42,369 12歳で この世を去った。 14 00:01:45,839 --> 00:01:54,247 禎子は 最後まで生きる望みを捨てず 鶴を折り続けていた。 15 00:01:57,451 --> 00:02:01,321 禎子の物語は 世界各国で翻訳され➡ 16 00:02:01,321 --> 00:02:05,626 時と場所をこえ 語り継がれていく。 17 00:02:05,626 --> 00:02:14,234 そして知られることのなかった原爆被害の 真実を世界に伝えることとなった。 18 00:02:18,138 --> 00:02:21,908 中村節子は 被爆直後 生き埋めとなったが➡ 19 00:02:21,908 --> 00:02:24,211 奇跡的に 生還した。 20 00:02:24,211 --> 00:02:29,316 しかし大切な姉と 甥を亡くした。 21 00:02:31,084 --> 00:02:35,422 戦後は アメリカ カナダへ移住し➡ 22 00:02:35,422 --> 00:02:40,027 英語で 原爆の 被害を語った。 23 00:02:40,027 --> 00:02:42,996 生々しく 力強い言葉は➡ 24 00:02:42,996 --> 00:02:48,835 核の恐怖を 数字や理論ではなく 人間の苦しみとして伝え➡ 25 00:02:48,835 --> 00:02:53,240 世界の人々の心を揺さぶった。 26 00:02:58,011 --> 00:03:03,216 2人の願いは 実を結ぶ。 27 00:03:03,216 --> 00:03:07,788 世界初の核兵器禁止条約の制定である。 28 00:03:07,788 --> 00:03:15,696 節子は 条約制定に力を尽くした NGOの 一員として ノーベル平和賞を受賞した。 29 00:03:35,615 --> 00:03:38,819 「映像の世紀バタフライエフェクト」。 30 00:03:38,819 --> 00:03:43,724 2回シリーズで 核の80年を振り返る。 31 00:03:43,724 --> 00:03:51,398 今回は 核廃絶に向けて 大きなうねりを 起こした 2人の少女の記録。 32 00:03:51,398 --> 00:03:59,005 誰かの ささやかな営みが 時空をこえ 時に世界を動かすことがある。 33 00:04:07,848 --> 00:04:15,655 これは 原爆投下の1か月後に撮影された 広島の映像である。 34 00:04:43,016 --> 00:04:46,720 8月6日 午前8時15分。 35 00:04:46,720 --> 00:04:48,955 2歳だった 佐々木禎子は➡ 36 00:04:48,955 --> 00:04:51,558 爆心地から 1.6キロの自宅で➡ 37 00:04:51,558 --> 00:04:54,261 母たちと朝食を とっていた。 38 00:04:54,261 --> 00:04:56,763 爆風で 吹き飛ばされたが➡ 39 00:04:56,763 --> 00:04:59,566 奇跡的に 無傷だった。 40 00:05:01,168 --> 00:05:08,909 火の手が迫り 一家は 近くの太田川へ逃げて 舟に乗った。 41 00:05:08,909 --> 00:05:12,512 そこに 雨が降ってきた。 42 00:05:12,512 --> 00:05:17,918 放射性物質を含んだ 黒い雨だった。 43 00:05:33,400 --> 00:05:40,173 その後 禎子の両親は 広島市内で 経営していた理髪店を再開し➡ 44 00:05:40,173 --> 00:05:43,977 生活の再建を図る。 45 00:05:45,712 --> 00:05:50,984 禎子も 大きな病気をすることなく 小学校へ入学する。 46 00:05:50,984 --> 00:05:54,654 しっかり者で 運動神経も抜群。 47 00:05:54,654 --> 00:05:59,359 体育の先生になることが夢だった。 48 00:06:21,081 --> 00:06:23,817 爆心地から 1.8キロ。 49 00:06:23,817 --> 00:06:27,120 広島駅に程近い場所にいたのが… 50 00:06:31,591 --> 00:06:34,461 高等女学校に 通っていたが➡ 51 00:06:34,461 --> 00:06:36,396 学徒動員のため➡ 52 00:06:36,396 --> 00:06:41,301 陸軍施設で 暗号の 解読を手伝っていた。 53 00:06:43,169 --> 00:06:51,578 その瞬間 建物は爆風で崩れ 節子は下敷きになった。 54 00:07:10,263 --> 00:07:18,471 その時 そばで 同じく生き埋めに なっていた軍人が こう励ましてくれた。 55 00:07:35,555 --> 00:07:39,192 同級生の多くが命を落としていた。 56 00:07:39,192 --> 00:07:46,099 節子は 軍人の言葉を頼りに がれきの小さな隙間から はい出した。 57 00:07:46,099 --> 00:07:50,804 しかし外は 変わり果てていた。 58 00:07:53,406 --> 00:07:56,409 親族5人も 犠牲となった。 59 00:07:56,409 --> 00:08:00,246 大好きな姉と かわいがっていた 甥は➡ 60 00:08:00,246 --> 00:08:05,151 肌が焼け落ち 重いやけどを 負っていた。 61 00:08:05,151 --> 00:08:08,855 節子は 2人を 懸命に看病したが➡ 62 00:08:08,855 --> 00:08:14,561 1週間後 相次いで 亡くなった。 63 00:08:49,496 --> 00:08:58,405 広島では 1945年の年末までに 14万人が亡くなったといわれる。 64 00:09:04,577 --> 00:09:12,385 原爆の被害は 海外はもちろん 日本でも 広く知られることはなかった。 65 00:09:14,320 --> 00:09:20,026 GHQは プレスコード 報道統制を敷き➡ 66 00:09:20,026 --> 00:09:25,031 被爆地の様子を伝えることを禁じた。 67 00:09:27,367 --> 00:09:29,369 被害を記録したフィルムも➡ 68 00:09:29,369 --> 00:09:33,473 GHQに没収された。 69 00:09:35,241 --> 00:09:38,511 このフィルムも その一つ。 70 00:09:38,511 --> 00:09:45,618 理化学研究所などの科学者が行った調査を 日本映画社が記録したフィルムである。 71 00:09:48,788 --> 00:09:54,194 およそ200人の調査団が 広島と長崎に派遣され➡ 72 00:09:54,194 --> 00:10:00,400 放射線量や爆風の規模などを調べていた。 73 00:10:07,407 --> 00:10:15,014 病院では解剖も行われ 人体への被害も記録されていた。 74 00:10:17,650 --> 00:10:26,359 だが 映像が日本で公開されたのは 戦後20年以上 たってからだった。 75 00:10:30,830 --> 00:10:38,938 慰霊碑に 「原爆」の言葉を使うことも できなかった。 76 00:10:38,938 --> 00:10:42,809 広島市立第一高等女学校の慰霊碑には➡ 77 00:10:42,809 --> 00:10:50,517 代わりに 原爆開発を導いた アインシュタインの公式が彫られた。 78 00:10:52,485 --> 00:11:01,194 正確な実態が伝わらない中 被爆者たちは 差別や偏見に苦しんだ。 79 00:11:01,194 --> 00:11:07,200 被爆による病は 「伝染病」と見なされた。 80 00:11:29,556 --> 00:11:35,762 原爆の熱線によってできた やけどの痕 ケロイドも 差別の対象となった。 81 00:11:41,834 --> 00:11:50,376 中でも 若い女性の体に残された ケロイドは 結婚や就職の壁となった。 82 00:11:50,376 --> 00:11:56,082 彼女たちは 「原爆乙女」と呼ばれた。 83 00:12:25,645 --> 00:12:32,719 孤立する原爆乙女を 救おうとする人物が現れた。 84 00:12:32,719 --> 00:12:36,522 広島流川教会の 牧師だった… 85 00:12:42,428 --> 00:12:50,670 教会は倒壊したが 谷本は 爆心地から 3キロの所にいて無傷だった。 86 00:12:50,670 --> 00:12:57,243 そのことが 谷本を強い使命感に駆り立てた。 87 00:12:57,243 --> 00:13:05,451 その後 負傷者の救護に当たったり 水を配ったり 献身的な救援活動を行った。 88 00:13:41,754 --> 00:13:50,530 1955年 谷本は 25人の原爆乙女を連れて アメリカに渡る。 89 00:13:50,530 --> 00:13:55,234 ケロイドの治療を 受けさせるためだった。 90 00:13:55,234 --> 00:14:01,140 25人だけではない。 谷本は できるだけ 多くの被爆者を救いたかった。 91 00:14:01,140 --> 00:14:05,878 資金は いくらあっても足りなかった。 92 00:14:05,878 --> 00:14:10,383 谷本は 戦前 留学していたころの人脈を頼り➡ 93 00:14:10,383 --> 00:14:12,385 アメリカで 寄付を集めるために➡ 94 00:14:12,385 --> 00:14:16,122 ある行動に出る。 95 00:14:16,122 --> 00:14:19,625 ♬~ 96 00:14:24,530 --> 00:14:29,869 有名テレビ番組への 出演だった。 97 00:14:29,869 --> 00:14:34,307 谷本は 全米4,000万人の 視聴者に➡ 98 00:14:34,307 --> 00:14:40,313 英語で 原爆の被害を訴えた。 99 00:15:12,044 --> 00:15:14,313 当時アメリカでは➡ 100 00:15:14,313 --> 00:15:19,519 原爆投下は 正しい選択だったと 考える人が大多数だった。 101 00:15:19,519 --> 00:15:24,090 被害について ほとんど何も知らなかった。 102 00:15:24,090 --> 00:15:29,295 谷本に ないしょで ゲストが招かれていた。 103 00:15:39,539 --> 00:15:44,510 (拍手) 104 00:15:44,510 --> 00:15:53,019 原爆を投下した B-29 エノラ・ゲイ号の 副操縦士 ロバート・ルイスである。 105 00:16:31,190 --> 00:16:33,125 Thank you,Captain Lewis. 106 00:16:33,125 --> 00:16:36,028 (拍手) 107 00:16:54,413 --> 00:17:03,689 アメリカじゅうから手紙が届き 寄せられた寄付は 5万ドルに上った。 108 00:17:03,689 --> 00:17:12,398 原爆乙女25人は 1年にわたって ケロイド治療の手術を受けた。 109 00:17:19,505 --> 00:17:23,209 ♬~ 110 00:17:37,890 --> 00:17:41,761 広島で谷本の活動を 手伝っていたのが➡ 111 00:17:41,761 --> 00:17:46,465 生き埋めから生還した 中村節子だった。 112 00:17:48,234 --> 00:17:50,202 姉と甥を亡くしたあと➡ 113 00:17:50,202 --> 00:17:55,007 節子は 谷本の教会に 通うようになっていた。 114 00:17:56,842 --> 00:18:00,046 節子は 谷本の 活動を通じ➡ 115 00:18:00,046 --> 00:18:02,281 21歳の時➡ 116 00:18:02,281 --> 00:18:07,987 夫となる カナダ人の 宣教師と出会う。 117 00:18:09,655 --> 00:18:15,761 谷本は 節子の結婚式にも駆けつけてくれた。 118 00:18:37,717 --> 00:18:47,026 1954年 節子は 社会福祉を学ぶために 22歳で アメリカに留学する。 119 00:18:47,026 --> 00:18:50,529 このころ 日本では➡ 120 00:18:50,529 --> 00:18:53,132 核兵器への恐怖が広がる事件が➡ 121 00:18:53,132 --> 00:18:57,003 またも起こっていた。 122 00:18:57,003 --> 00:19:02,608 ♬~ 123 00:19:16,355 --> 00:19:22,762 1954年3月に起こった 第五福竜丸事件である。 124 00:19:26,666 --> 00:19:31,937 太平洋 ビキニ環礁で行われた アメリカの水爆実験によって➡ 125 00:19:31,937 --> 00:19:41,113 操業していた日本の漁船 第五福竜丸が 放射性降下物 死の灰を浴びた。 126 00:19:41,113 --> 00:19:46,619 23人の乗組員全員が 被ばくした。 127 00:19:48,521 --> 00:19:52,992 太平洋沖で取れたマグロからは 放射性物質が検出され➡ 128 00:19:52,992 --> 00:19:57,296 「原爆マグロ」と呼ばれた。 129 00:19:58,898 --> 00:20:05,004 放射性物質を含んだ雨が日本に降った。 130 00:20:08,174 --> 00:20:12,545 留学直後の節子は アメリカの 新聞社から➡ 131 00:20:12,545 --> 00:20:16,415 第五福竜丸事件についての意見を 問われた。 132 00:20:16,415 --> 00:20:18,417 またも 日本を 襲った➡ 133 00:20:18,417 --> 00:20:21,287 核の被害に 節子は 正直に➡ 134 00:20:21,287 --> 00:20:24,657 「怒りを 感じる」 と述べた。 135 00:20:24,657 --> 00:20:28,627 すると 非難の手紙が届くようになった。 136 00:20:28,627 --> 00:20:34,834 アメリカの核政策への批判と 受け取られたからだった。 137 00:21:06,298 --> 00:21:15,541 1952年4月 日本は独立を回復し プレスコードが解かれた。 138 00:21:15,541 --> 00:21:18,077 その年の夏に➡ 139 00:21:18,077 --> 00:21:20,045 雑誌「アサヒグラフ」が➡ 140 00:21:20,045 --> 00:21:23,349 被爆者の写真を 掲載する。 141 00:21:25,151 --> 00:21:32,158 日本人の多くが 初めて 原爆の被害を知った。 142 00:21:34,160 --> 00:21:39,165 原爆を題材に 劇映画も作られた。 143 00:21:42,868 --> 00:21:48,574 1953年に製作された 「ひろしま」。 144 00:21:53,946 --> 00:22:01,453 被爆者を含め 8万人を超える広島市民が出演した。 145 00:22:06,959 --> 00:22:12,865 映画の中で 被爆者を苦しめていた病が 描かれている。 146 00:22:19,538 --> 00:22:26,212 放射線障害による 急性白血病である。 147 00:22:26,212 --> 00:22:34,620 広島では 被爆後 数年たった このころから患者数が急激に増えていた。 148 00:22:39,491 --> 00:22:44,029 2歳で被爆した佐々木禎子。 149 00:22:44,029 --> 00:22:48,734 小学6年生 11歳の冬に異変があらわれた。 150 00:22:53,239 --> 00:22:55,874 直前の秋の運動会では➡ 151 00:22:55,874 --> 00:22:58,444 リレーの選手として活躍するほど➡ 152 00:22:58,444 --> 00:23:01,947 健康そのものだった。 153 00:23:26,205 --> 00:23:34,914 その冬 風邪をひいた禎子は 顎や首が ひどく腫れた。 154 00:23:34,914 --> 00:23:41,086 検査の結果 急性リンパ性白血病を 発症していることが分かり➡ 155 00:23:41,086 --> 00:23:45,324 入院することになった。 156 00:23:45,324 --> 00:23:50,296 両親は 病名を伝えなかった。 157 00:23:50,296 --> 00:23:57,670 だが禎子は 血液検査の結果を ひそかに書き写していた。 158 00:23:57,670 --> 00:24:01,407 病室の患者同士の会話で➡ 159 00:24:01,407 --> 00:24:07,513 白血球の数が10万を超えると死ぬらしい という うわさを耳にし➡ 160 00:24:07,513 --> 00:24:13,719 自分の命が長くないと思っていた。 161 00:24:37,176 --> 00:24:43,983 病室での日々が続いていた 被爆10年の夏。 162 00:24:46,518 --> 00:24:51,056 名古屋の高校から 原爆症患者の ためにと➡ 163 00:24:51,056 --> 00:24:55,160 禎子の病院へ 千羽鶴が 送られてきた。 164 00:24:57,830 --> 00:25:02,001 それを見た禎子は 病気が治ると信じ➡ 165 00:25:02,001 --> 00:25:10,008 薬を包んだ紙や お見舞い品の包装紙を 使って 自分でも鶴を折り始めた。 166 00:25:15,047 --> 00:25:23,389 誰かが手伝おうとしても 禎子は自分で 鶴を折ると言って聞き入れなかった。 167 00:25:23,389 --> 00:25:32,097 病状が悪化するとともに 折り鶴は 次第に小さくなった。 168 00:25:32,097 --> 00:25:41,807 それでも禎子は折ることをやめず 枕元に飾り続けた。 169 00:26:03,595 --> 00:26:08,567 折り鶴は 千羽を超えた。 170 00:26:08,567 --> 00:26:12,905 だが 願いは かなわなかった。 171 00:26:12,905 --> 00:26:18,510 禎子は 8か月の闘病の末 亡くなった。 172 00:26:18,510 --> 00:26:22,314 12歳だった。 173 00:26:26,618 --> 00:26:35,461 禎子の死後 同級生たちは 禎子をはじめ 原爆症で亡くなった子どものために➡ 174 00:26:35,461 --> 00:26:40,165 「原爆の子の像」を建てようと 募金活動を始めた。 175 00:26:42,101 --> 00:26:47,439 1957年 広島を訪れた外国人ジャーナリストが➡ 176 00:26:47,439 --> 00:26:53,745 禎子と折り鶴の物語 そして同級生の募金活動を知る。 177 00:26:56,515 --> 00:26:59,017 ドイツ出身のユダヤ人… 178 00:27:05,224 --> 00:27:08,927 ユンクは ホロコーストで➡ 179 00:27:08,927 --> 00:27:14,333 親族 十数人を 失っていた。 180 00:27:42,728 --> 00:27:48,233 1958年5月 「原爆の子の像」が完成。 181 00:27:48,233 --> 00:27:53,238 全国3,000以上の学校が 募金に参加していた。 182 00:28:17,796 --> 00:28:27,306 よくとし ユンクは 広島の被爆者を描いた ルポルタージュ 「灰墟の光」を出版する。 183 00:28:28,974 --> 00:28:33,178 禎子と折り鶴の物語が 初めて世界へ伝えられ➡ 184 00:28:33,178 --> 00:28:37,583 ヨーロッパ各国で翻訳される ベストセラーとなった。 185 00:28:39,885 --> 00:28:42,220 その2年後➡ 186 00:28:42,220 --> 00:28:45,857 核兵器を使用した国 アメリカの中からも➡ 187 00:28:45,857 --> 00:28:50,662 被爆者の声を伝えようとする人が現れた。 188 00:28:54,299 --> 00:28:58,303 原爆被害の調査のため 派遣された夫について➡ 189 00:28:58,303 --> 00:29:02,341 広島に 移住していた。 190 00:29:02,341 --> 00:29:06,178 多くの被爆者が 次々 亡くなっていることを知り➡ 191 00:29:06,178 --> 00:29:08,113 「原爆の子の像」の下で➡ 192 00:29:08,113 --> 00:29:13,118 核廃絶を 求める署名活動を始めた。 193 00:29:36,842 --> 00:29:40,379 そして バーバラは 私財を投じ➡ 194 00:29:40,379 --> 00:29:46,685 被爆者の声を世界に直接届ける 証言の旅に出る。 195 00:29:49,721 --> 00:29:56,795 被爆者たち 25人とともに アメリカ イギリス ソ連など➡ 196 00:29:56,795 --> 00:30:00,966 核保有国などの 150都市を回った。 197 00:30:00,966 --> 00:30:03,869 加害国であるアメリカの市民が➡ 198 00:30:03,869 --> 00:30:05,937 被害者の声を じかに伝えるという➡ 199 00:30:05,937 --> 00:30:10,642 画期的な試みだった。 200 00:30:12,644 --> 00:30:19,851 1964年には原爆の投下を決断した 当時の大統領 トルーマンと➡ 201 00:30:19,851 --> 00:30:24,856 被爆者たちとの面会を 実現させた。 202 00:31:23,348 --> 00:31:26,051 留学を終えた節子は➡ 203 00:31:26,051 --> 00:31:28,954 カナダ人の夫とともに この地に移り住み➡ 204 00:31:28,954 --> 00:31:34,259 2児の母となっていた。 205 00:31:36,128 --> 00:31:40,966 1970年 子育てが一段落し➡ 206 00:31:40,966 --> 00:31:47,272 節子は トロント市の教育委員会に ソーシャルワーカーとして就職する。 207 00:31:47,272 --> 00:31:53,779 移民の子どもたちへの学習支援やいじめの 対応に苦慮する教師と関わる中で➡ 208 00:31:53,779 --> 00:32:01,186 節子は 被爆体験を 子どもたちに語るようになった。 209 00:32:27,212 --> 00:32:36,721 節子は 被爆30年となった 1975年 トロント市庁舎で原爆展を開く。 210 00:32:38,457 --> 00:32:46,298 地元の教育関係者や作家が賛同し 節子は 市民団体を結成した。 211 00:32:46,298 --> 00:32:52,904 社会福祉の仕事を続ける中で 自分が果たすべき役割を知ったのだった。 212 00:33:02,180 --> 00:33:07,018 このころ 禎子と 折り鶴の物語は➡ 213 00:33:07,018 --> 00:33:10,822 世界中で知られるように なっていった。 214 00:33:10,822 --> 00:33:15,026 その力となったのは 児童小説… 215 00:33:27,272 --> 00:33:34,946 作者のエレノア・コアは 広島を訪れた時に「原爆の子の像」を見て➡ 216 00:33:34,946 --> 00:33:41,953 死に立ち向かいながら 鶴を折り続けた禎子のことを知った。 217 00:34:14,619 --> 00:34:20,825 著作は 海外の学校教育にも 取り入れられるようになる。 218 00:34:20,825 --> 00:34:23,728 十数か国で翻訳され➡ 219 00:34:23,728 --> 00:34:30,735 アメリカをはじめ 世界中の子どもたちに 広く読まれるようになった。 220 00:34:45,884 --> 00:34:52,691 これは サンフランシスコで行われた 被爆者を追悼する催し。 221 00:34:52,691 --> 00:34:58,597 小学生が 数百羽の鶴を折って 展示した。 222 00:34:58,597 --> 00:35:06,805 折り鶴は 核廃絶と平和を願う人々の 象徴となっていく。 223 00:35:08,807 --> 00:35:15,580 1982年6月 ニューヨークでは 国連の軍縮総会に合わせ➡ 224 00:35:15,580 --> 00:35:21,086 核廃絶を求め 100万人が集まった。 225 00:35:21,086 --> 00:35:29,227 当時 ソ連のアフガニスタン侵攻を機に 米ソ間の軍拡競争が激しさを増していた。 226 00:35:29,227 --> 00:35:35,734 デモ行進には 節子も カナダから参加していた。 227 00:36:01,660 --> 00:36:03,595 (鐘の音) 228 00:36:03,595 --> 00:36:06,531 2012年8月。 229 00:36:06,531 --> 00:36:09,401 広島の 平和記念式典に➡ 230 00:36:09,401 --> 00:36:13,071 一人のアメリカ人の 姿があった。 231 00:36:13,071 --> 00:36:17,008 原爆投下を決断した トルーマン大統領の孫➡ 232 00:36:17,008 --> 00:36:20,945 ダニエルである。 彼もまた➡ 233 00:36:20,945 --> 00:36:25,116 エレノア・コアの小説 「サダコと千羽鶴」を知り➡ 234 00:36:25,116 --> 00:36:29,521 心を動かされた 一人だった。 235 00:36:51,643 --> 00:37:00,051 祖父が決断した原爆投下が この街に 何をもたらしたのか 初めて知った。 236 00:37:02,353 --> 00:37:07,258 禎子の兄 雅弘とも会った。 237 00:37:27,178 --> 00:37:32,383 ダニエルは 核廃絶運動に身を投じていく。 238 00:37:32,383 --> 00:37:35,687 一人の少女が 折り鶴に託した願いは➡ 239 00:37:35,687 --> 00:37:41,192 数十年の時を経て 人々を突き動かしていく。 240 00:37:48,166 --> 00:37:55,173 85歳になった節子は ニューヨークの 国連本部を訪れた。 241 00:37:57,208 --> 00:38:01,679 この日 歴史的な会議が開かれる。 242 00:38:01,679 --> 00:38:08,787 核兵器そのものを禁止するという 国際条約制定に向けた会議だった。 243 00:38:10,388 --> 00:38:12,357 節子は 2007年から➡ 244 00:38:12,357 --> 00:38:16,194 核廃絶を目指す 国際NGO ICANの活動に➡ 245 00:38:16,194 --> 00:38:19,097 加わっていた。 246 00:38:19,097 --> 00:38:24,002 そこで 英語による 被爆証言を 10年間 続け➡ 247 00:38:24,002 --> 00:38:30,308 各国の政府関係者やメディアに 核廃絶を 直接 訴えかけてきた。 248 00:38:30,308 --> 00:38:36,247 そして この日を迎えたのだった。 249 00:38:36,247 --> 00:38:42,720 節子は 各国の政府関係者に向けた スピーチを任された。 250 00:38:42,720 --> 00:38:52,630 語ったのは 72年前に見た 幼い甥の最期の姿だった。 251 00:39:38,176 --> 00:39:50,388 (拍手) 252 00:39:56,294 --> 00:39:58,696 核兵器禁止条約は➡ 253 00:39:58,696 --> 00:40:01,499 2017年7月➡ 254 00:40:01,499 --> 00:40:05,236 圧倒的な支持を得て採択された。 255 00:40:05,236 --> 00:40:11,442 核兵器の 開発 実験 生産 保有 使用などが➡ 256 00:40:11,442 --> 00:40:14,646 全面的に禁止された。 257 00:40:17,248 --> 00:40:22,987 だが この会議に 核保有国は参加していなかった。 258 00:40:22,987 --> 00:40:29,127 日本も欠席した。 日本代表の席には➡ 259 00:40:29,127 --> 00:40:33,131 メッセージつきの折り鶴があった。 260 00:40:41,673 --> 00:40:43,608 (秒針の音) 261 00:40:43,608 --> 00:40:47,345 よくとしに 発表された終末時計。 262 00:40:47,345 --> 00:40:53,985 針は 終末に向け 30秒 進んだ。 263 00:40:53,985 --> 00:41:00,124 「世界の指導者が 核戦争や気候変動の 脅威に対応しなかった」というのが➡ 264 00:41:00,124 --> 00:41:02,527 理由だった。 265 00:41:19,444 --> 00:41:22,714 節子が参加した NGO ICANは➡ 266 00:41:22,714 --> 00:41:28,720 核兵器禁止条約への貢献がたたえられ ノーベル平和賞を受賞した。 267 00:41:31,522 --> 00:41:37,562 節子は ICANを代表して スピーチを行った。 268 00:41:37,562 --> 00:41:39,897 語ったのは➡ 269 00:41:39,897 --> 00:41:48,006 あの日 生き埋めになった自分を 励ましてくれた軍人の あの言葉だった。 270 00:42:14,332 --> 00:42:20,838 (拍手) 271 00:42:23,174 --> 00:42:27,645 授賞式の日 節子のもとには➡ 272 00:42:27,645 --> 00:42:34,652 広島の学生たちから たくさんの折り鶴が届いていた。 273 00:42:39,190 --> 00:42:41,859 あの日から 80年。 274 00:42:41,859 --> 00:42:46,431 禎子の同級生は数少なくなった。 275 00:42:46,431 --> 00:42:48,733 6年竹組の時 親友だった… 276 00:42:52,770 --> 00:42:59,177 今も禎子のことを 次の世代に向け 語り継いでいる。 277 00:43:18,029 --> 00:43:25,636 禎子が亡くなった よくとし 同級生たちは 追悼文集を出している。 278 00:43:25,636 --> 00:43:31,242 一人の男子生徒が こう つづっていた。 279 00:44:07,612 --> 00:44:35,006 ♬~ 280 00:44:35,006 --> 00:44:41,212 ♬~