1 00:02:10,130 --> 00:02:17,130 精神科病院。 80年前 いとこが入院を余儀なくされた 2 00:02:18,800 --> 00:02:25,800 多くの患者が命を落としていました。 戦時中 そこでは 3 00:02:28,800 --> 00:02:34,800 主な原因は 栄養失調による餓死でした。 4 00:02:37,800 --> 00:02:41,660 精神科病院の塀の向こう側で 5 00:02:41,660 --> 00:02:48,800 どう生きようとしたのでしょうか。 いとこは あの戦争の中を 6 00:02:48,800 --> 00:03:01,500 ♬〜 7 00:03:30,800 --> 00:03:34,660 医療や介護などのテーマを取材し 8 00:03:34,660 --> 00:03:38,660 数々の作品を発表してきました。 9 00:04:23,460 --> 00:04:27,800 1939年に生まれた向井さん。 10 00:04:27,800 --> 00:04:31,130 東京・池袋で 両親と 11 00:04:31,130 --> 00:04:35,000 2人の兄と暮らしていました。 12 00:04:35,000 --> 00:04:39,460 園子さんと出会ったのは5歳の頃。 13 00:04:39,460 --> 00:04:44,170 一回りほど年上だったと記憶しています。 14 00:06:11,130 --> 00:06:13,070 (空襲警報) 15 00:06:13,070 --> 00:06:15,460 しかし…。 16 00:06:15,460 --> 00:06:20,800 園子さんは 町に空襲警報が鳴り響き始めると 17 00:06:20,800 --> 00:06:25,100 思いも寄らぬ行動をとるようになります。 18 00:09:14,030 --> 00:09:18,460 園子さんは どんな最期を迎えたのか。 19 00:09:18,460 --> 00:09:23,770 都立松沢病院を訪れました。 向井さんは 20 00:09:28,130 --> 00:09:32,800 探してもらいましたが 園子さんの当時のカルテを 21 00:09:32,800 --> 00:09:35,800 見つかりませんでした。 22 00:09:40,460 --> 00:09:47,460 今に伝える場所がありました。 敷地の一角に 戦時中の様子を 23 00:09:52,070 --> 00:09:59,360 松沢病院の資料を展示しています。 戦前から戦中にかけての 24 00:11:02,700 --> 00:11:07,460 戦時中 全国各地の精神科病院で 25 00:11:07,460 --> 00:11:14,770 多くの患者が栄養失調で亡くなりました。 極度の食糧不足により 26 00:11:16,460 --> 00:11:24,460 平時より はるかに高くなっていました。 松沢病院でも 患者の死亡率は 27 00:11:46,130 --> 00:11:54,000 その実態が分析されます。 戦後 松沢病院の医師たちによって 28 00:11:54,000 --> 00:11:58,460 戦争の長期化とともに死亡率が上がり 29 00:11:58,460 --> 00:12:04,330 終戦の1945年には 40%を超えました。 30 00:12:04,330 --> 00:12:10,800 その一方で 国民全体の死亡率は1%台。 31 00:12:10,800 --> 00:12:18,500 なぜなのでしょうか。 塀の中と外で 大きな差が生じたのは 32 00:12:26,130 --> 00:12:32,800 農業の担い手が不足していきます。 農村からの出征が増え 33 00:12:32,800 --> 00:12:40,460 食料品の値段が高騰していきました。 食糧の生産は減り 34 00:12:40,460 --> 00:12:46,800 その入院費を 当時 松沢病院の患者の多くは 35 00:12:46,800 --> 00:12:51,460 「公費」 都の予算で賄われていました。 36 00:12:51,460 --> 00:12:55,130 食費は定額で1日20銭。 37 00:12:55,130 --> 00:12:59,870 食費は ほとんど上がらず 物価が高騰しても 38 00:12:59,870 --> 00:13:03,870 必要な栄養がとれなくなっていきます。 39 00:13:05,460 --> 00:13:09,460 患者の… 当時の内村祐之院長は 40 00:13:12,970 --> 00:13:16,460 …と訴えています。 41 00:13:18,460 --> 00:13:25,800 必要な量を提供できていましたが 戦争前 ひとつき20日ほどは 42 00:13:25,800 --> 00:13:32,500 4〜5日にまで激減していました。 1940年には 43 00:13:43,130 --> 00:13:51,000 日本栄養士会の会長 中村丁次さんに 戦時中の栄養状況に詳しい 44 00:13:51,000 --> 00:13:55,700 読み解いてもらいました。 当時の院長の論文を 45 00:14:40,330 --> 00:14:48,330 インタビュー音声が残っていました。 当時 松沢病院で看護師をしていた男性の 46 00:14:50,800 --> 00:14:55,660 録音をした精神科医の塚崎直樹さん。 47 00:14:55,660 --> 00:15:00,660 書籍にまとめようと 戦時下の精神科病院の歴史を 48 00:15:00,660 --> 00:15:04,400 40年前 全国の病院を回り 49 00:15:04,400 --> 00:15:08,700 インタビューを行いました。 医師や看護師に 50 00:15:12,800 --> 00:15:15,130 聞こえます。 「今 聞こえてます?」。 51 00:15:15,130 --> 00:15:20,460 松沢病院にいたと思われる時期の 向井さんは 園子さんが 52 00:15:20,460 --> 00:15:24,460 看護師の証言を聞かせてもらいました。 53 00:16:18,130 --> 00:16:25,130 食糧不足は苛烈さを増していきます。 戦争の激化とともに 54 00:16:27,130 --> 00:16:32,460 食糧の配給制度が確立されると 患者の死亡率は 55 00:16:32,460 --> 00:16:34,800 一旦は下がります。 56 00:16:34,800 --> 00:16:40,100 再び急上昇していきます。 しかし その後 57 00:16:42,660 --> 00:16:50,660 遅れや中止が相次ぐようになったのです。 食糧事情の悪化によって 配給に 58 00:16:54,130 --> 00:16:59,870 農村への買い出しで 塀の外では ヤミでの取り引きや 59 00:16:59,870 --> 00:17:03,870 不足する食糧を補うようになります。 60 00:17:05,660 --> 00:17:10,800 これは 戦争中の栄養摂取の実態調査。 61 00:17:10,800 --> 00:17:18,460 熱量は 1,403Cal 昭和19年3月の配給による 62 00:17:18,460 --> 00:17:23,330 たんぱく質量は 38.3gなのに対し 63 00:17:23,330 --> 00:17:32,030 多くなっています。 実際の摂取量は 1,842Cal 59gと 64 00:17:48,430 --> 00:17:54,330 ヤミでの食糧調達ができない患者たちは 塀に遮断され 65 00:17:54,330 --> 00:17:58,630 深刻な飢餓状態に陥っていきました。 66 00:18:23,130 --> 00:18:27,460 しかし 塀の外へ支援を求めても 67 00:18:27,460 --> 00:18:31,460 手は差し伸べられませんでした。 68 00:19:02,130 --> 00:19:06,800 1945年の終戦の年 69 00:19:06,800 --> 00:19:12,130 松沢病院では 多くの患者たちが餓死。 70 00:19:12,130 --> 00:19:18,430 300人近くが埋葬されました。 敷地内に穴が掘られ 71 00:20:17,800 --> 00:20:22,130 向井さんが 園子さんの死を知ったのは 72 00:20:22,130 --> 00:20:28,130 偶然 耳にしてのことでした。 戦争末期 両親の話を 73 00:20:30,460 --> 00:20:36,800 医師たちは どう受け止めていたのか。 園子さんたち患者の死を 74 00:20:36,800 --> 00:20:40,130 ≪こんにちは。 はじめまして…。 はじめまして 向井と申します。 75 00:20:40,130 --> 00:20:42,460 よろしくお願いいたします。 76 00:20:42,460 --> 00:20:45,170 訪ねたのは… 77 00:20:50,330 --> 00:20:55,460 歴史を研究し 戦時中のカルテを分析するなど 78 00:20:55,460 --> 00:21:00,770 考え続けてきました。 精神医療のよりよい在り方を 79 00:22:33,800 --> 00:22:39,660 父方の親族を調べ 向井さんは 家系図をたどって 80 00:22:39,660 --> 00:22:43,660 園子さんの戸籍にたどりつきました。 81 00:22:57,460 --> 00:23:07,130 四丁目四百十四番地にて死亡ですね。 東京都豊島区西巣鴨 82 00:23:07,130 --> 00:23:10,800 亡くなった場所は 園子さんが 83 00:23:10,800 --> 00:23:14,460 世田谷区ではなく 松沢病院のある 84 00:23:14,460 --> 00:23:18,170 豊島区となっていました。 85 00:23:28,800 --> 00:23:34,130 4丁目の… これ。 保養院ですね。 86 00:23:34,130 --> 00:23:41,430 保養院という名称の精神科病院。 その場所にあったのは 87 00:23:43,130 --> 00:23:50,130 多くの精神科病院が集まっていました。 当時 この地域には 88 00:23:51,800 --> 00:23:56,660 園子さんは 何らかの理由で その一つの保養院に 89 00:23:56,660 --> 00:24:00,360 転院したと考えられます。 90 00:24:02,800 --> 00:24:06,460 保養院は 空襲で全焼。 91 00:24:06,460 --> 00:24:12,170 手がかりは 何も残っていません。 患者の記録も焼け 92 00:24:38,130 --> 00:24:43,840 塀の中の極限状態を伝える音声テープ。 93 00:24:45,460 --> 00:24:51,770 証言がありました。 その中に 向井さんの心に留まった 94 00:25:00,460 --> 00:25:05,330 患者たちを支えようと それは 厳しい飢えに耐える 95 00:25:05,330 --> 00:25:10,630 病院の職員たちの様子。 食料確保に奮闘する 96 00:25:13,030 --> 00:25:16,460 看護師の… 97 00:25:16,460 --> 00:25:22,130 農地に変え 敷地内にあった運動場や中庭を開墾し 98 00:25:22,130 --> 00:25:26,840 患者と共に 農作業に汗を流しました。 99 00:26:44,130 --> 00:26:50,000 戦後も 102歳で亡くなる直前まで 浦野シマさんは 100 00:26:50,000 --> 00:26:56,000 共に過ごしたといいます。 精神障害のある人たちと 101 00:27:20,460 --> 00:27:24,800 病院を勤め上げたあと 自宅の敷地に 102 00:27:24,800 --> 00:27:33,130 私財をなげうって開設します。 精神障害者の地域生活を支援する作業所を 103 00:27:33,130 --> 00:27:36,460 ココナツクッキーと…。 では ランチお一つと 104 00:27:36,460 --> 00:27:40,330 そこは おいしい食べ物を 105 00:27:40,330 --> 00:27:45,030 いつでも おなかいっぱい食べられる場所。 106 00:28:19,070 --> 00:28:27,130 ♬〜 107 00:28:27,130 --> 00:28:30,030 お花があるなと思って。 かわいい 108 00:28:30,030 --> 00:28:35,030 ♬〜