走れメロス 太宰治 Transcription 金川一之 Proofreading 高橋美奈子 TEI encoding 永崎研宣 青空文庫 金川一之 高橋美奈子 2011年1月17日 太宰治 走れメロス 筑摩書房「太宰治全集3」ちくま文庫、 1988(昭和63)年10月25日初版発行 1998(平成10)年6月15日第2刷

placeNameの@typeでは、実際にいた場所を"real"、そうでない場所を"unreal"として区別している。

persNameは、人称代名詞以外の人や人々を指す名詞に付与している。人称代名詞にはrsを付与している。いずれも@correspでID参照している。

2022年11月5日タグの追加・修正。editorialDeclの追加など。 2011年1月17日修正 入力金川一之 校正高橋美奈子 2000年12月4日作成

メロスは激怒した。必ず、かの 邪智暴虐 じゃちぼうぎゃく の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。 笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。

きょう未明メロスを出発し、野を越え山越え、十里はなれた シラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。 十六の、内気な妹と二人暮しだ。このは、村の或る律気な牧人を、近々、 花婿 はなむこ として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばるにやって来たのだ。 先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。

メロスには竹馬の友があった。 セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、 石工をしている。 その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、 訪ねて行くのが楽しみである。

歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。 ひっそりしている。もう既に、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、 なんだか、夜のせいばかりでは無く、全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、 だんだん不安になって来た。で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、 二年まえに此のに来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった はず だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。 しばらく歩いて 老爺 ろうや に逢い、 こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。 メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、 あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 様は、人を殺します。」 「なぜ殺すのだ。」 「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」 「たくさんの人を殺したのか。」 「はい、はじめは王様妹婿さま を。それから、御自身 世嗣 よつぎ を。 それから、妹さまを。それから、妹さま御子さまを。それから、皇后さまを。 それから、賢臣アレキス様を。」 「おどろいた。国王は乱心か。」 「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、 というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、 少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。 御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」 聞いて、メロスは激怒した。 あき れただ。生かして置けぬ。」

メロスは、 単純な男であった。買い物を、背負ったままで、 のそのそ王城にはいって行った。たちまちは、 巡邏 じゅんら 警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは 短剣が出て来たので、 騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」 暴君ディオニスは静かに、 けれども威厳を もっ て問いつめた。 そのの顔は 蒼白 そうはく で、 眉間 みけん しわ は、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」メロスは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」は、 憫笑 びんしょう した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、 わしの孤独がわからぬ。」 「言うな!」メロスは、いきり立って 反駁 はんばく した。「人の心を疑うのは、 最も恥ずべき悪徳だ。は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」 「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。 人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて つぶや き、ほっと 溜息 ためいき をついた。 わしだって、平和を望んでいるのだが。」 「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。 「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」 「だまれ、 下賤 げせん の者。」 は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、 はりつけ になってから、泣いて びたって聞かぬぞ。」 「ああ、 悧巧 りこう だ。 自惚 うぬぼ れているがよい。 は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、 メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、 「ただ、に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。 たった一人のに、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私はで結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」 「ばかな。」暴君は、 しわが れた声で低く笑った。 「とんでもない うそ を言うわい。 逃がした小鳥が帰って来るというのか。」 「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。 は約束を守ります。を、三日間だけ許して下さい。が、の帰りを待っているのだ。 そんなにを信じられないならば、よろしい、このセリヌンティウス という石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。 私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。 たのむ、そうして下さい。」 それを聞いては、残虐な気持で、そっと 北叟笑 ほくそえ んだ。 生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つき だま された振りして、 放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、 これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、 正直者とかいう 奴輩 やつばら にうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、 きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」 「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」 メロスは口惜しく、 地団駄 じだんだ 踏んだ。ものも言いたくなくなった。

竹馬の友、セリヌンティウスは、王城に召された。 暴君ディオニスの面前で、 き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、に 一切の事情を語った。セリヌンティウス は無言で 首肯 うなず き、 メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、 縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。

メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、へ到着したのは、 、 陽は既に高く昇って、村人たちに出て仕事をはじめていた。メロス十六の妹も、 きょうはの代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来るの、 疲労 困憊 こんぱい の姿を見つけて驚いた。そうして、 うるさくに質問を浴びせた。 「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。 に用事を残して来た。またすぐに行かなければならぬ。 あす、 おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」 は頬をあからめた。 「うれしいか。 綺麗 きれい な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」 メロスは、また、よろよろと歩き出し、へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、 間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。 眼が覚めたのはだった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、 少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の 牧人は驚き、 それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、 葡萄 ぶどう の季節まで待ってくれ、 と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。 婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。まで議論をつづけて、やっと、 どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。

結婚式は、に行われた。 新郎新婦の、 神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような 大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、 めいめい気持を引きたて、狭いの中で、むんむん蒸し暑いのも こら え、陽気に歌をうたい、 手を った。メロスも、満面に喜色を たた え、しばらくは、 とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、 外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。 この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。 ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、 まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、 雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロス ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、 すぐにに出かける。 大切な用事があるのだ。がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。 おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、 嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえは、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを 持っていろ。」 花嫁は、夢見心地で 首肯 うなず いた。 メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。の家にも、宝といっては、と羊だけだ。他には、何も無い。 全部あげよう。もう一つ、メロスになったことを誇ってくれ。」 花婿 み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも 会釈 えしゃく して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。

眼が覚めたのはである。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、 これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あのに、人の信実の存する ところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、 いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。

さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、 雨中、矢の如く走り出た。 は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。 奸佞 かんねい 邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、は殺される。若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。を出て、 を横切り、をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、 雨も み 、、そろそろ暑くなって来た。メロス ひたい の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、 もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。 まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。 ゆっくり歩こう、と持ちまえの 呑気 のんき さを取り返し、 好きな小歌をいい声で歌い出した。

ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、 そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って いた災難、 メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方のを。 きのうの豪雨で山の水源地 氾濫 はんらん し、 濁流 滔々 とうとう と下流に集り、猛勢一挙にを破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、 木葉微塵 こっぱみじん 橋桁 はしげた を跳ね飛ばしていた。は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、 また、声を限りに呼びたててみたが、 繋舟 けいしゅう は残らず浪に さら われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、 海のようになっている。メロス川岸にうずくまり、 男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。 「ああ、 しず めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既にです。あれが沈んでしまわぬうちに、 王城に行き着くことが出来 なかったら、あの佳い友達が、のために死ぬのです。」 濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、 あお り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ! 濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、 百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、 押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと きわけ掻きわけ、 めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに 憐愍 れんびん を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、 すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。

ぜいぜい荒い呼吸をしながらをのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。 「待て。」 「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」 「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これからにくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、の命令で、ここでを待ち伏せしていたのだな。」 山賊たちは、ものも言わず一斉に 棍棒 こんぼう を振り挙げた。 メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、 その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、 残る者のひるむ すき に、 さっさと走ってを下った。

一気にを駈け降りたが、 流石 さすが に疲労し、 折から 灼熱 しゃくねつ の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく 眩暈 めまい を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、 よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。 ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し 韋駄天 いだてん 、ここまで突破して来たメロスよ。 真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、 やがて殺されなければならぬ。おまえは、 稀代 きたい の不信の人間、 まさしくの思う つぼ だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身 えて、もはや 芋虫 いもむし ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな 不貞腐 ふてくさ れた根性が、心の隅に巣喰った。 は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、は精一ぱいに努めて来たのだ。 動けなくなるまで走って来たのだ。は不信の徒では無い。ああ、できる事ならの胸を ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれどもは、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。 は、よくよく不幸な男だ。は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。 あざむ いた。中途で倒れるのは、 はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、の定った運命なのかも知れない。 セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。は、いつでも を信じた。を、欺かなかった。私たちは、 本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、 を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。 それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。 セリヌンティウスは走ったのだ。 を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ! は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気にを駈け降りて来たのだ。 だから、出来たのだよ。ああ、この上、に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 は負けたのだ。 だらしが無い。笑ってくれ。に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、 身代りを殺して、 を助けてくれると約束した。の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、 の言うままになっている。 は、おくれて行くだろう。は、ひとり合点して を笑い、そうして事も無くを放免するだろう。そうなったら、 は、死ぬよりつらい。 は、永遠に裏切者だ。 地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、 も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか? ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。には私の家が在る。 羊も居る。妹夫婦は、 まさかから追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、 くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、 ばかばかしい。は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる かな 。――四肢を投げ出して、 うとうと、まどろんでしまった。

ふと耳に、 潺々 せんせん 、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、 水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から 滾々 こんこん と、何か小さく ささや きながら清水が湧き出ているのである。 その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で すく って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、 夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労 恢復 かいふく と共に、わずかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。は赤い光を、樹々の葉に投じ、 葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。を、待っている人があるのだ。 少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。は、信じられている。の命なぞは、 問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。 いまはただその一事だ。走れ! メロスは信頼されている。は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、 ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロスおまえの恥ではない。 やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。 は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。

路行く人を押しのけ、 ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、 その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、 十倍も早く走った。一団の旅人 っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、 磔にかかっているよ。」 ああ、その男その男のために 私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。 呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。 塔楼は、を受けてきらきら光っている。

「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。 「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 フィロストラトスでございます。貴方お友達セリヌンティウス様弟子でございます。」 その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。 「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの かた をお助けになることは出来ません。」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」 「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」 「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。 「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。 刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロス は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」 「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。 人の命も問題でないのだ。は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」 「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、 間に合わぬものでもない。走るがいい。」 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロス は走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。

メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。 約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場群衆にむかって叫んだつもりであったが、 のど がつぶれて しわが れた声が かす かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、 縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスは それを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 だ、刑吏! 殺されるのは、だ。メロスだ。を人質にしたは、ここにいる!」 と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆくの両足に、 かじ りついた。 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 セリヌンティウス。」メロス は眼に涙を浮べて言った。を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。 は、途中で一度、悪い夢を見た。 し 私を殴ってくれなかったら、と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」 セリヌンティウスは、すべてを察した様子で 首肯 うなず き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。 殴ってから優しく 微笑 ほほえ み、 メロスを殴れ。同じくらい音高くの頬を殴れ。はこの三日の間、 たった一度だけ、ちらとを疑った。生れて、はじめてを疑った。を殴ってくれなければ、 と抱擁できない。」 メロスは腕に うな りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、よ。」 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。 群衆の中からも、 歔欷 きょき の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、 まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 おまえらの望みは かな ったぞ。 おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」 どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」 ひとりの少女が、 のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。 佳き友は、気をきかせて教えてやった。 メロスは、まっぱだかじゃないか。 早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、 メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」 勇者は、ひどく赤面した。

メロス 牧人 ディオニス セリヌンティウス 石工 メロスの妹 メロスの妹の婿 牧人 妹婿さま 妹さま 御子さま お世嗣 アレキス 賢臣 老爺 フィロストラトス 石工 村内の野? 花婿の家 羊小屋 シラクス 都の大路 王城 磔の台 塔楼 刑場 十里の路 隣村 村外の野? 山の水源地 川岸 対岸 路傍の草原 岩の裂目 野原 小川