メロスは激怒した。必ず、かの
邪智暴虐
の王を除かなければならぬと決意した。メロスには政治がわからぬ。メロスは、村の牧人である。
笛を吹き、羊と遊んで暮して来た。けれども邪悪に対しては、人一倍に敏感であった。
きょう未明メロスは村を出発し、野を越え山越え、十里はなれた
此
のシラクスの市にやって来た。メロスには父も、母も無い。女房も無い。 十六の、内気な妹と二人暮しだ。この妹は、村の或る律気な一牧人を、近々、
花婿
として迎える事になっていた。結婚式も間近かなのである。 メロスは、それゆえ、花嫁の衣裳やら祝宴の御馳走やらを買いに、はるばる市にやって来たのだ。 先ず、その品々を買い集め、それから都の大路をぶらぶら歩いた。
メロスには竹馬の友があった。 セリヌンティウスである。今は此のシラクスの市で、 石工をしている。
その友を、これから訪ねてみるつもりなのだ。久しく逢わなかったのだから、 訪ねて行くのが楽しみである。
歩いているうちにメロスは、まちの様子を怪しく思った。
ひっそりしている。もう既に、まちの暗いのは当りまえだが、けれども、 なんだか、夜のせいばかりでは無く、市全体が、やけに寂しい。のんきなメロスも、
だんだん不安になって来た。路で逢った若い衆をつかまえて、何かあったのか、 二年まえに此の市に来たときは、夜でも皆が歌をうたって、まちは賑やかであった
筈
だが、と質問した。若い衆は、首を振って答えなかった。 しばらく歩いて
老爺
に逢い、 こんどはもっと、語勢を強くして質問した。老爺は答えなかった。 メロスは両手で老爺のからだをゆすぶって質問を重ねた。老爺は、 あたりをはばかる低声で、わずか答えた。 「王様は、人を殺します。」
「なぜ殺すのだ。」
「悪心を抱いている、というのですが、誰もそんな、悪心を持っては居りませぬ。」
「たくさんの人を殺したのか。」
「はい、はじめは王様の妹婿さま を。それから、御自身のお
世嗣
を。 それから、妹さまを。それから、妹さまの 御子さまを。それから、皇后さまを。
それから、賢臣のアレキス様を。」
「おどろいた。国王は乱心か。」
「いいえ、乱心ではございませぬ。人を、信ずる事が出来ぬ、 というのです。このごろは、臣下の心をも、お疑いになり、
少しく派手な暮しをしている者には、人質ひとりずつ差し出すことを命じて居ります。
御命令を拒めば十字架にかけられて、殺されます。きょうは、六人殺されました。」 聞いて、メロスは激怒した。 「
呆
れた王だ。生かして置けぬ。」
メロスは、 単純な男であった。買い物を、背負ったままで、
のそのそ王城にはいって行った。たちまち彼は、
巡邏
の警吏に捕縛された。調べられて、メロスの懐中からは 短剣が出て来たので、 騒ぎが大きくなってしまった。メロスは、王の前に引き出された。 「この短刀で何をするつもりであったか。言え!」
暴君ディオニスは静かに、 けれども威厳を
以
て問いつめた。 その王の顔は
蒼白
で、
眉間
の
皺
は、刻み込まれたように深かった。 「市を暴君の手から救うのだ。」とメロスは悪びれずに答えた。 「おまえがか?」王は、
憫笑
した。「仕方の無いやつじゃ。おまえには、 わしの孤独がわからぬ。」
「言うな!」とメロスは、いきり立って
反駁
した。「人の心を疑うのは、 最も恥ずべき悪徳だ。王は、民の忠誠をさえ疑って居られる。」
「疑うのが、正当の心構えなのだと、わしに教えてくれたのは、おまえたちだ。人の心は、あてにならない。
人間は、もともと私慾のかたまりさ。信じては、ならぬ。」暴君は落着いて
呟
き、ほっと
溜息
をついた。 「わしだって、平和を望んでいるのだが。」
「なんの為の平和だ。自分の地位を守る為か。」こんどはメロスが嘲笑した。 「罪の無い人を殺して、何が平和だ。」
「だまれ、
下賤
の者。」 王は、さっと顔を挙げて報いた。「口では、どんな清らかな事でも言える。わしには、人の腹綿の奥底が見え透いてならぬ。 おまえだって、いまに、
磔
になってから、泣いて
詫
びたって聞かぬぞ。」
「ああ、王は
悧巧
だ。
自惚
れているがよい。 私は、ちゃんと死ぬる覚悟で居るのに。命乞いなど決してしない。ただ、――」と言いかけて、 メロスは足もとに視線を落し瞬時ためらい、 「ただ、私に情をかけたいつもりなら、処刑までに三日間の日限を与えて下さい。
たった一人の妹に、亭主を持たせてやりたいのです。三日のうちに、 私は村で結婚式を挙げさせ、必ず、ここへ帰って来ます。」
「ばかな。」と暴君は、
嗄
れた声で低く笑った。 「とんでもない
嘘
を言うわい。 逃がした小鳥が帰って来るというのか。」
「そうです。帰って来るのです。」メロスは必死で言い張った。 「私は約束を守ります。私を、三日間だけ許して下さい。妹が、私の帰りを待っているのだ。 そんなに私を信じられないならば、よろしい、この市にセリヌンティウス
という石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。
私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい。 たのむ、そうして下さい。」 それを聞いて王は、残虐な気持で、そっと
北叟笑
んだ。 生意気なことを言うわい。どうせ帰って来ないにきまっている。この嘘つきに
騙
された振りして、 放してやるのも面白い。そうして身代りの男を、三日目に殺してやるのも気味がいい。人は、 これだから信じられぬと、わしは悲しい顔して、その身代りの男を磔刑に処してやるのだ。世の中の、 正直者とかいう
奴輩
にうんと見せつけてやりたいものさ。 「願いを、聞いた。その身代りを呼ぶがよい。三日目には日没までに帰って来い。おくれたら、その身代りを、 きっと殺すぞ。ちょっとおくれて来るがいい。おまえの罪は、永遠にゆるしてやろうぞ。」 「なに、何をおっしゃる。」
「はは。いのちが大事だったら、おくれて来い。おまえの心は、わかっているぞ。」
メロスは口惜しく、
地団駄
踏んだ。ものも言いたくなくなった。
竹馬の友、セリヌンティウスは、、王城に召された。 暴君ディオニスの面前で、
佳
き友と佳き友は、二年ぶりで相逢うた。メロスは、友に
一切の事情を語った。セリヌンティウス は無言で
首肯
き、 メロスをひしと抱きしめた。友と友の間は、それでよかった。セリヌンティウスは、 縄打たれた。メロスは、すぐに出発した。初夏、満天の星である。
メロスはその夜、一睡もせず十里の路を急ぎに急いで、村へ到着したのは、 、 陽は既に高く昇って、村人たちは野に出て仕事をはじめていた。メロスの十六の妹も、 きょうは兄の代りに羊群の番をしていた。よろめいて歩いて来る兄の、 疲労
困憊
の姿を見つけて驚いた。そうして、 うるさく兄に質問を浴びせた。
「なんでも無い。」メロスは無理に笑おうと努めた。 「市に用事を残して来た。またすぐ市に行かなければならぬ。 あす、 おまえの結婚式を挙げる。早いほうがよかろう。」
妹は頬をあからめた。 「うれしいか。
綺麗
な衣裳も買って来た。さあ、これから行って、村の人たちに知らせて来い。結婚式は、あすだと。」
メロスは、また、よろよろと歩き出し、家へ帰って神々の祭壇を飾り、祝宴の席を調え、 間もなく床に倒れ伏し、呼吸もせぬくらいの深い眠りに落ちてしまった。
眼が覚めたのはだった。メロスは起きてすぐ、花婿の家を訪れた。そうして、
少し事情があるから、結婚式を明日にしてくれ、と頼んだ。婿の
牧人は驚き、 それはいけない、こちらには未だ何の仕度も出来ていない、
葡萄
の季節まで待ってくれ、 と答えた。メロスは、待つことは出来ぬ、どうか明日にしてくれ給え、と更に押してたのんだ。 婿の牧人も頑強であった。なかなか承諾してくれない。まで議論をつづけて、やっと、
どうにか婿をなだめ、すかして、説き伏せた。
結婚式は、に行われた。 新郎新婦の、
神々への宣誓が済んだころ、黒雲が空を覆い、ぽつりぽつり雨が降り出し、やがて車軸を流すような
大雨となった。祝宴に列席していた村人たちは、何か不吉なものを感じたが、それでも、 めいめい気持を引きたて、狭い家の中で、むんむん蒸し暑いのも
怺
え、陽気に歌をうたい、 手を
拍
った。メロスも、満面に喜色を
湛
え、しばらくは、 王とのあの約束をさえ忘れていた。祝宴は、に入っていよいよ乱れ華やかになり、人々は、
外の豪雨を全く気にしなくなった。メロスは、一生このままここにいたい、と思った。
この佳い人たちと生涯暮して行きたいと願ったが、いまは、自分のからだで、自分のものでは無い。 ままならぬ事である。メロスは、わが身に鞭打ち、ついに出発を決意した。あすの日没までには、
まだ十分の時が在る。ちょっと一眠りして、それからすぐに出発しよう、と考えた。その頃には、 雨も小降りになっていよう。少しでも永くこの家に愚図愚図とどまっていたかった。メロス ほどの男にも、やはり未練の情というものは在る。今宵呆然、歓喜に酔っているらしい花嫁に近寄り、 「おめでとう。私は疲れてしまったから、ちょっとご免こうむって眠りたい。眼が覚めたら、
すぐに市に出かける。 大切な用事があるのだ。私がいなくても、もうおまえには優しい亭主があるのだから、決して寂しい事は無い。 おまえの兄の、一ばんきらいなものは、人を疑う事と、それから、 嘘をつく事だ。おまえも、それは、知っているね。亭主との間に、どんな秘密でも作ってはならぬ。 おまえに言いたいのは、それだけだ。おまえの兄は、たぶん偉い男なのだから、おまえもその誇りを 持っていろ。」
花嫁は、夢見心地で
首肯
いた。 メロスは、それから花婿の肩をたたいて、 「仕度の無いのはお互さまさ。私の家にも、宝といっては、妹と羊だけだ。他には、何も無い。
全部あげよう。もう一つ、メロスの弟になったことを誇ってくれ。」
花婿は
揉
み手して、てれていた。メロスは笑って村人たちにも
会釈
して、宴席から立ち去り、羊小屋にもぐり込んで、死んだように深く眠った。
眼が覚めたのはである。メロスは跳ね起き、南無三、寝過したか、いや、まだまだ大丈夫、
これからすぐに出発すれば、約束の刻限までには十分間に合う。きょうは是非とも、あの王に、人の信実の存する ところを見せてやろう。そうして笑って磔の台に上ってやる。メロスは、悠々と身仕度をはじめた。雨も、 いくぶん小降りになっている様子である。身仕度は出来た。
さて、メロスは、ぶるんと両腕を大きく振って、 雨中、矢の如く走り出た。 私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。王の
奸佞
邪智を打ち破る為に走るのだ。走らなければならぬ。そうして、私は殺される。若い時から名誉を守れ。 さらば、ふるさと。若いメロスは、つらかった。幾度か、立ちどまりそうになった。 えい、えいと大声挙げて自身を叱りながら走った。村を出て、野
を横切り、森をくぐり抜け、隣村に着いた頃には、 雨も
止
み 、、そろそろ暑くなって来た。メロスは
額
の汗をこぶしで払い、ここまで来れば大丈夫、 もはや故郷への未練は無い。妹たちは、きっと佳い夫婦になるだろう。私には、いま、なんの気がかりも無い筈だ。 まっすぐに王城に行き着けば、それでよいのだ。そんなに急ぐ必要も無い。 ゆっくり歩こう、と持ちまえの
呑気
さを取り返し、 好きな小歌をいい声で歌い出した。
ぶらぶら歩いて二里行き三里行き、 そろそろ全里程の半ばに到達した頃、降って
湧
いた災難、 メロスの足は、はたと、とまった。見よ、前方の川を。 きのうの豪雨で山の水源地は
氾濫
し、 濁流
滔々
と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、
木葉微塵
に
橋桁
を跳ね飛ばしていた。彼は茫然と、立ちすくんだ。あちこちと眺めまわし、 また、声を限りに呼びたててみたが、
繋舟
は残らず浪に
浚
われて影なく、渡守りの姿も見えない。流れはいよいよ、ふくれ上り、
海のようになっている。メロスは川岸にうずくまり、 男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。 「ああ、
鎮
めたまえ、荒れ狂う流れを! 時は刻々に過ぎて行きます。太陽も既にです。あれが沈んでしまわぬうちに、 王城に行き着くことが出来 なかったら、あの佳い友達が、私のために死ぬのです。」
濁流は、メロスの叫びをせせら笑う如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、
煽
り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。今はメロスも覚悟した。泳ぎ切るより他に無い。ああ、神々も照覧あれ!
濁流にも負けぬ愛と誠の偉大な力を、いまこそ発揮して見せる。メロスは、ざんぶと流れに飛び込み、 百匹の大蛇のようにのた打ち荒れ狂う浪を相手に、必死の闘争を開始した。満身の力を腕にこめて、 押し寄せ渦巻き引きずる流れを、なんのこれしきと
掻
きわけ掻きわけ、 めくらめっぽう獅子奮迅の人の子の姿には、神も哀れと思ったか、ついに
憐愍
を垂れてくれた。押し流されつつも、 見事、対岸の樹木の幹に、すがりつく事が出来たのである。ありがたい。メロスは馬のように大きな胴震いを一つして、
すぐにまた先きを急いだ。一刻といえども、むだには出来ない。。
ぜいぜい荒い呼吸をしながら峠をのぼり、のぼり切って、ほっとした時、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。
「待て。」
「何をするのだ。私は陽の沈まぬうちに王城へ行かなければならぬ。放せ。」
「どっこい放さぬ。持ちもの全部を置いて行け。」 「私にはいのちの他には何も無い。その、たった一つの命も、これから王にくれてやるのだ。」 「その、いのちが欲しいのだ。」 「さては、王の命令で、ここで私を待ち伏せしていたのだな。」
山賊たちは、ものも言わず一斉に
棍棒
を振り挙げた。 メロスはひょいと、からだを折り曲げ、飛鳥の如く身近かの一人に襲いかかり、 その棍棒を奪い取って、 「気の毒だが正義のためだ!」と猛然一撃、たちまち、三人を殴り倒し、 残る者のひるむ
隙
に、 さっさと走って峠を下った。
一気に峠を駈け降りたが、
流石
に疲労し、 折からの
灼熱
の太陽がまともに、かっと照って来て、メロスは幾度となく
眩暈
を感じ、これではならぬ、と気を取り直しては、
よろよろ二、三歩あるいて、ついに、がくりと膝を折った。立ち上る事が出来ぬのだ。天を仰いで、くやし泣きに泣き出した。
ああ、あ、濁流を泳ぎ切り、山賊を三人も撃ち倒し
韋駄天
、ここまで突破して来たメロスよ。 真の勇者、メロスよ。今、ここで、疲れ切って動けなくなるとは情無い。愛する友は、おまえを信じたばかりに、 やがて殺されなければならぬ。おまえは、
稀代
の不信の人間、 まさしく王の思う
壺
だぞ、と自分を叱ってみるのだが、全身
萎
えて、もはや
芋虫
ほどにも前進かなわぬ。路傍の草原にごろりと寝ころがった。身体疲労すれば、 精神も共にやられる。もう、どうでもいいという、勇者に不似合いな
不貞腐
れた根性が、心の隅に巣喰った。 私は、これほど努力したのだ。約束を破る心は、みじんも無かった。神も照覧、私は精一ぱいに努めて来たのだ。 動けなくなるまで走って来たのだ。私は不信の徒では無い。ああ、できる事なら私の胸を
截
ち割って、真紅の心臓をお目に掛けたい。 愛と信実の血液だけで動いているこの心臓を見せてやりたい。けれども私は、この大事な時に、精も根も尽きたのだ。 私は、よくよく不幸な男だ。私は、きっと笑われる。私の一家も笑われる。 私は友を
欺
いた。中途で倒れるのは、 はじめから何もしないのと同じ事だ。ああ、もう、どうでもいい。これが、私の定った運命なのかも知れない。 セリヌンティウスよ、ゆるしてくれ。君は、いつでも私 を信じた。私も君を、欺かなかった。私たちは、 本当に佳い友と友であったのだ。いちどだって、暗い疑惑の雲を、お互い胸に宿したことは無かった。いまだって、 君は 私を無心に待っているだろう。ああ、待っているだろう。ありがとう、セリヌンティウス。よくも私を信じてくれた。 それを思えば、たまらない。友と友の間の信実は、この世で一ばん誇るべき宝なのだからな。
セリヌンティウス、 私は走ったのだ。 君を欺くつもりは、みじんも無かった。信じてくれ!
私は急ぎに急いでここまで来たのだ。濁流を突破した。山賊の囲みからも、するりと抜けて一気に峠を駈け降りて来たのだ。 私だから、出来たのだよ。ああ、この上、私に望み給うな。放って置いてくれ。どうでも、いいのだ。 私は負けたのだ。
だらしが無い。笑ってくれ。王は私に、ちょっとおくれて来い、と耳打ちした。おくれたら、 身代りを殺して、 私を助けてくれると約束した。私は王の卑劣を憎んだ。けれども、今になってみると、 私は王の言うままになっている。 私は、おくれて行くだろう。王は、ひとり合点して私 を笑い、そうして事も無く私を放免するだろう。そうなったら、 私は、死ぬよりつらい。 私は、永遠に裏切者だ。 地上で最も、不名誉の人種だ。セリヌンティウスよ、 私も死ぬぞ。君と一緒に死なせてくれ。君だけは私を信じてくれるにちがい無い。いや、それも私の、ひとりよがりか?
ああ、もういっそ、悪徳者として生き伸びてやろうか。村には私の家が在る。
羊も居る。妹夫婦は、 まさか私を村から追い出すような事はしないだろう。正義だの、信実だの、愛だの、考えてみれば、
くだらない。人を殺して自分が生きる。それが人間世界の定法ではなかったか。ああ、何もかも、 ばかばかしい。私は、醜い裏切り者だ。どうとも、勝手にするがよい。やんぬる
哉
。――四肢を投げ出して、 うとうと、まどろんでしまった。
ふと耳に、
潺々
、水の流れる音が聞えた。そっと頭をもたげ、息を呑んで耳をすました。すぐ足もとで、
水が流れているらしい。よろよろ起き上って、見ると、岩の裂目から
滾々
と、何か小さく
囁
きながら清水が湧き出ているのである。 その泉に吸い込まれるようにメロスは身をかがめた。水を両手で
掬
って、一くち飲んだ。ほうと長い溜息が出て、 夢から覚めたような気がした。歩ける。行こう。肉体の疲労
恢復
と共に、わずかながら希望が生れた。 義務遂行の希望である。わが身を殺して、名誉を守る希望である。は赤い光を、樹々の葉に投じ、
葉も枝も燃えるばかりに輝いている。日没までには、まだ間がある。私を、待っている人があるのだ。
少しも疑わず、静かに期待してくれている人があるのだ。私は、信じられている。私の命なぞは、
問題ではない。死んでお詫び、などと気のいい事は言って居られぬ。私は、信頼に報いなければならぬ。 いまはただその一事だ。走れ! メロス。
私は信頼されている。私は信頼されている。先刻の、あの悪魔の囁きは、あれは夢だ。悪い夢だ。忘れてしまえ。五臓が疲れているときは、
ふいとあんな悪い夢を見るものだ。メロス、おまえの恥ではない。
やはり、おまえは真の勇者だ。再び立って走れるようになったではないか。ありがたい! 私は、正義の士として死ぬ事が出来るぞ。ああ、陽が沈む。ずんずん沈む。待ってくれ、ゼウスよ。 私は生れた時から正直な男であった。正直な男のままにして死なせて下さい。
路行く人を押しのけ、
跳
ねとばし、メロスは黒い風のように走った。野原で酒宴の、
その宴席のまっただ中を駈け抜け、酒宴の人たちを仰天させ、犬を
蹴
とばし、小川を飛び越え、少しずつ沈んでゆく太陽の、
十倍も早く走った。一団の旅人と
颯
っとすれちがった瞬間、不吉な会話を小耳にはさんだ。「いまごろは、あの男も、 磔にかかっているよ。」 ああ、その男、その男のために 私は、いまこんなに走っているのだ。その男を死なせてはならない。急げ、メロス。おくれてはならぬ。 愛と誠の力を、いまこそ知らせてやるがよい。風態なんかは、どうでもいい。メロスは、いまは、ほとんど全裸体であった。
呼吸も出来ず、二度、三度、口から血が噴き出た。見える。はるか向うに小さく、シラクスの市の塔楼が見える。 塔楼は、を受けてきらきら光っている。
「ああ、メロス様。」うめくような声が、風と共に聞えた。
「誰だ。」メロスは走りながら尋ねた。 「フィロストラトスでございます。貴方のお友達セリヌンティウス様の弟子でございます。」
その若い石工も、メロスの後について走りながら叫んだ。 「もう、駄目でございます。むだでございます。走るのは、やめて下さい。もう、あの
方
をお助けになることは出来ません。」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」
「ちょうど今、あの方が死刑になるところです。ああ、あなたは遅かった。おうらみ申します。ほんの少し、もうちょっとでも、早かったなら!」
「いや、まだ陽は沈まぬ。」メロスは胸の張り裂ける思いで、赤く大きい夕陽ばかりを見つめていた。走るより他は無い。
「やめて下さい。走るのは、やめて下さい。いまはご自分のお命が大事です。あの方は、あなたを信じて居りました。 刑場に引き出されても、平気でいました。王様が、さんざんあの方をからかっても、メロス
は来ます、とだけ答え、強い信念を持ちつづけている様子でございました。」
「それだから、走るのだ。信じられているから走るのだ。間に合う、間に合わぬは問題でないのだ。
人の命も問題でないのだ。私は、なんだか、もっと恐ろしく大きいものの為に走っているのだ。ついて来い! フィロストラトス。」
「ああ、あなたは気が狂ったか。それでは、うんと走るがいい。ひょっとしたら、
間に合わぬものでもない。走るがいい。」 言うにや及ぶ。まだ陽は沈まぬ。最後の死力を尽して、メロス は走った。メロスの頭は、からっぽだ。何一つ考えていない。 ただ、わけのわからぬ大きな力にひきずられて走った。
、メロスは疾風の如く刑場に突入した。間に合った。 「待て。その人を殺してはならぬ。メロスが帰って来た。
約束のとおり、いま、帰って来た。」と大声で刑場の群衆にむかって叫んだつもりであったが、
喉
がつぶれて
嗄
れた声が
幽
かに出たばかり、群衆は、ひとりとして彼の到着に気がつかない。すでに磔の柱が高々と立てられ、
縄を打たれたセリヌンティウスは、徐々に釣り上げられてゆく。メロスは それを目撃して最後の勇、先刻、濁流を泳いだように群衆を掻きわけ、掻きわけ、 「私だ、刑吏!
殺されるのは、私だ。メロスだ。彼を人質にした私は、ここにいる!」
と、かすれた声で精一ぱいに叫びながら、ついに磔台に昇り、釣り上げられてゆく友の両足に、
齧
りついた。 群衆は、どよめいた。あっぱれ。ゆるせ、と口々にわめいた。セリヌンティウスの縄は、ほどかれたのである。 「セリヌンティウス。」メロス
は眼に涙を浮べて言った。「私を殴れ。ちから一ぱいに頬を殴れ。 私は、途中で一度、悪い夢を見た。 君が
若
し 私を殴ってくれなかったら、私は君と抱擁する資格さえ無いのだ。殴れ。」
セリヌンティウスは、すべてを察した様子で
首肯
き、刑場一ぱいに鳴り響くほど音高くメロスの右頬を殴った。 殴ってから優しく
微笑
み、 「メロス、私を殴れ。同じくらい音高く私の頬を殴れ。私はこの三日の間、 たった一度だけ、ちらと君を疑った。生れて、はじめて君を疑った。君が私を殴ってくれなければ、
私は君と抱擁できない。」
メロスは腕に
唸
りをつけてセリヌンティウスの頬を殴った。 「ありがとう、友よ。」 二人同時に言い、ひしと抱き合い、それから嬉し泣きにおいおい声を放って泣いた。
群衆の中からも、
歔欷
の声が聞えた。暴君ディオニスは、群衆の背後から二人の様を、
まじまじと見つめていたが、やがて静かに二人に近づき、顔をあからめて、こう言った。 「おまえらの望みは
叶
ったぞ。 おまえらは、わしの心に勝ったのだ。信実とは、決して空虚な妄想ではなかった。 どうか、わしをも仲間に入れてくれまいか。どうか、わしの願いを聞き入れて、おまえらの仲間の一人にしてほしい。」 どっと群衆の間に、歓声が起った。 「万歳、王様万歳。」
ひとりの少女が、
緋
のマントをメロスに捧げた。メロスは、まごついた。 佳き友は、気をきかせて教えてやった。 「メロス、君は、まっぱだかじゃないか。 早くそのマントを着るがいい。この可愛い娘さんは、 メロスの裸体を、皆に見られるのが、たまらなく口惜しいのだ。」
勇者は、ひどく赤面した。
メロス
牧人
ディオニス
王
セリヌンティウス
石工
メロスの妹
メロスの妹の婿
牧人
妹婿さま
妹さま
御子さま
お世嗣
アレキス
賢臣
老爺
フィロストラトス
石工
村
野村内の野?
家
花婿の家
羊小屋
シラクス
市
都の大路
路
王城
磔の台
塔楼
刑場
十里の路
森
隣村
野村外の野?
川
山の水源地
橋
川岸
対岸
路傍の草原
岩の裂目
峠
野原
小川